アメリカの後を追い悪化の一途を辿る日本の公教育

――まずは『崩壊する日本の公教育』の出版までの経緯について教えてください。

鈴木大裕氏
鈴木大裕氏
すべての画像を見る

執筆の背景には、近年急激に進む日本の教育「改革」への強烈な危機感がありました。

まずは、2006年の教育基本法の改正というより改悪です。日本では、政治が教育に介入し、教育が戦争に加担してしまった第二次世界大戦の歴史から、政治が二度と教育に介入できないよう、教育の独立性が保障されてきました。

しかし、2006年の教育基本法の改悪により、政治が教育に介入しやすくなったのです。そして、流行りの新自由主義的な、物事すべてを経済的な観点からのみ考えようとする政治家が教育に口を出し、思い付きで色々なことをやり始めました。

政府が進める「学校における働き方改革」は、その典型でしょう。本来、「学校」とはどういう場所なのか、「教師のしごと」とはどういうものであるべきかという根本的な話から始めなくてはならないのに、その部分が抜け落ちたまま政策が展開されているからおかしなことになるんです。

今や、「学校における働き方改革」を名目にして、教育の超合理化と公教育の民営化が進んでいます。「学校部活動の地域移行」の話題も盛り上がっています。

経産省やスポーツ庁のスポーツ産業への呼びかけを見ると、これもどうやら教員の働き方改革の文脈だけで説明できるような綺麗なものではなく、公教育の民営化の意味合いの方が強そうです。

あとは、コロナ禍が後押ししたGIGAスクール構想(※)の実現ですね。そして教員不足の穴埋めという名目で文科省が奨励した、特別免許状の乱発による「副業先生」の増加、それにともなう教員の使い捨て労働者化。

こういった一連の流れを見ていると、きっかけは違うにせよ、日本もアメリカと同じような道を進んでしまっているな、という危機感が大きいです。

※全国の児童・生徒ひとりひとりに対して、1台のコンピューターと高速ネットワークを整備しようとする文部科学省の取り組み。

アメリカでは、こうした新自由主義教育改革が教育の現場を壊し、格差を拡大してきた歴史があります。まずは今の日本の状況を正しく認識したうえで、私たちがどこへ進もうとしているのかを考えて欲しい、という思いから今回の新書を執筆しました。