どことなく歓迎されていない空気を感じた取材
2016年4月、新聞の「忌野さんの創作ノート発見 30曲分 自信と不安抱く」というニュースを読んでいて、忌野清志郎と初めて会った日のことを思い出した。
2009年5月2日に58歳で亡くなったロック歌手の忌野清志郎さんが、22~24歳の時に記した創作ノートが見つかった。(中略)「RCサクセション」が全国的に知られる前のもので、作品に対する自信の一方、世に認められるか不安を抱いていた様子がうかがえる。(日本経済新聞)
ぼくが初めて忌野清志郎と対面したのは1976年1月のことで、シングル盤『スローバラード』が発売される21日よりも少し前だった。
事前にポリドール・レコードから渡された見本盤のレコードを聴いたとき、東芝時代のサウンドとは明らかに違っていることに気づいて、やや興奮した。
それと同時に全身から絞り出すような忌野清志郎の歌声の力強さと、切ない歌詞の世界にも圧倒されたのである。
すごい傑作が生み出されたのではないか、いや間違いなく傑作だと思ったので、取材が楽しみになった。ぼくは『スローバラード』のことを少しでも広めたいという気持ちで、ヒット曲になることへの手伝いができるように思えたのだ。
長かった沈黙を破って素晴らしい作品を発表するメンバーたちと、いつ会えるのだろうと、自分なりに大きな期待を持って取材に臨むことにした。
取材が行われたのは、東京・六本木にあった音楽出版社の会議室だったと思う。約束の午後3時少し前に伺うと、すでにRCサクセションのメンバー3人が待っていた。
部屋に入ったときに、どことなく歓迎されていない空気を感じた。
1974年に完成していたにもかかわらず、ずっとお蔵入りになっていたアルバム『シングル・マン』が、やっと4月21日に出ることが決まったと、キティ・レコードの宣伝担当の井上さんからは事前に情報を得ていた。
そこでまずは挨拶がわりにと思い、「ようやくアルバムが陽の目を見ることが出来ましたね」と笑顔で話しかけた。
ところが、清志郎も、破廉ケンチも、笑顔を浮かべるでもなく黙っているので焦った。小林和生は普通の態度だったような気もするが、それをよく覚えていないくらいに一気に緊張してしまった。
「待っていた時間が長かったですね」とか、「完成していかがですか」と話題を振っても、「あぁ」とか「まぁ」とか言う声だけで、ほとんどノーコメントに近い。
破廉ケンチはずっとあらぬ方向を見ているし、清志郎もなぜか目を合わせてくれない。
気まずい空気のなかでただ沈黙が訪れて、誰もが思い思いの方向に視線を向けている。
ぼくの質問には誰からの反応もなく、普通のインタビューとはまったく異なる重苦しい状態に、思わず井上さんが間に入って話をつなげてくれた。