「天狗になって舞い上がっていた自分」
大学の卒論に「谷川俊太郎論」を書いたほど影響を受けていたという当時の中島は、札幌では有名なフォークシンガーとして、「コンテスト荒らし」と呼ばれるほどの存在だった。
1972年5月28日、中島はニッポン放送主催の全国フォーク音楽祭全国大会に、北海道地区代表として出場。
大会の1週間ほど前に、谷川俊太郎の「私が歌う理由」という詩を渡され、それに曲をつけるというのが課題になっていた。その詩を目にした時に、中島は大きな衝撃を受けた。
「天狗になって舞い上がっていた自分が、谷川さんの詩を見た瞬間にガーンとやられたと思いました」
何のために歌っているのか? 歌とは何なのか? ということを、強く自分に問い詰め始めた中島は、最終審査まで勝ち抜いて、プロデビューのチャンスを与えられるも、辞退することとなる。
その後の作風、そして歌手としての運命を決めたのは、この一篇の詩との出会いによるものだった。
その後、大学で教員課程を取っていたため、中島は母校の柏葉高校で教員実習を行う。国語の実習にもかかわらず、壇上に立つと、生徒たちに向かってこんな挨拶をした。
「私は将来、シンガーソングライターになるつもりです。実習に来たのは単位を取るためです」
そして、ギターを取り出して歌い出した。
谷川俊太郎の詩にショックを受け、自らを追い詰めて、一度はデビューを断念したが、プロの歌手になるという情熱は失っていなかった。
そして1975年、ヤマハが主催するポプコン(ポピュラーソングコンテスト)での入賞を経て、念願のレコードデビューを果たしたのだった。