5歳のとき母に孤児院に置き去りにされる
“親ガチャ” という言葉があるように、子どもは親を選べない。
東京都杉並区に、4人家族の長女として生まれたOさん。現在は東京都昭島市で、18歳の長女と17歳の長男と3人暮らしをしながら、発達障害の自助グループを運営している。
4歳までは平凡な人生を送っていた彼女の生活は、両親が離婚したことをきっかけに激変した。
「両親の離婚調停中は、母と妹と3人で、親戚の家でお世話になっていました。ある日、母に離婚を告げられましたが、父親っ子だった私は、父の “迎えにいくよ” という言葉を信じていたので、そのときは、父と会えなくなるなんて思ってもいませんでした」
Oさんはカウンセリングの治療を受ける38歳まで気づかなかったが、父と離れたショックから、その当時の記憶がないという。
次に覚えている記憶は、母から児童養護施設(当時の孤児院)に置き去りにされたときのことだ。
その日は、母と児童相談所の職員男性の3人で「お友だちがたくさんいるところに行こう」と言われ、出かけた。「大人だけの話があるから待っていてね」と言われ、若い職員とブランコに乗ったりして遊んでいた。
「夕方になり、施設の先生に『ママは?』と尋ねると、『帰ったよ』と言われ、自分が騙された、置き去りにされたと分かりました。当時、5歳だった私は涙が止まらず、胸が張り裂けそうでした」
そのときに初めて喘息の発作を起こし、体力がつく中学生までは入退院を繰り返すようになる。両親の離婚と、置き去りにされたことで、脳みそや心がバリバリ音を立てて破壊されるような感じがしたという。
そこから、児童養護施設での暮らしが始まるが、喘息の発作を起こしても放置されるような劣悪な環境だった。
Oさんは長期の休みのときは、家に帰れたが、施設内の他の子どもの多くには帰れる場所がなかった。
帰れない子はOさんを妬み、いじめてくるようになり、母は幼い彼女を「お前の顔はお父さんそっくり」「お前のお父さんに強姦されたせいでお前を妊娠した」となじり、Oさんをネグレクトした。そのままどこにも居場所がない小・中学校時代を送る。