性売買に積極的に加担した蔦屋重三郎
――明暗の両面だけでなく、さらにその裏にある歴史的背景も含めて描く必要がある、と。
そもそも「明暗」はどちらかを選べるのでなく、分離できない対になっているものだと考えます。吉原で栄えた文化の側面を描く際に問われるのは、遊女が高い教養を身につけたり、豪華な着物を着たり、浮世絵で美しく描かれるのはなぜなのか。それらの少なくないものは吉原を繁栄させることが目的でした。
今でいう宣伝活動・プロモーションですね。言ってしまえば、性売買をより活発にするための活動だった。そのような活動を、現代に生きる私たちが、当時の社会の目線と同じように「文化」と呼び、愛でるだけでいいのだろうか、ということです。
――2024年に東京藝術大学大学美術館で開催された『大吉原展』は、まさにその文化的側面の価値や美しさのみにフォーカスしたことが問題視されました。
たとえば、個人の浮世絵コレクターが趣味で集めた作品を並べて「綺麗でしょう」と展示しても、批判は集まらないでしょう。しかし藝大に求められることではない。
吉原で生まれた文化を紹介するのであれば、「これらは性売買を促進するために作られた」という背景まで含めて、きちんと前面に出すべきだったと思います。文化と社会あるいは経済を分離して扱ったことが手落ちだったと思います。
――そう考えると、『べらぼう』の主人公・蔦屋重三郎の果たした役割についても、慎重になる必要がありますね。NHKでは「江戸のメディア王」というキャッチフレーズで肯定的に宣伝していますが。
蔦屋重三郎が手がけた『吉原細見』や浮世絵は、先ほども言ったように、吉原遊郭を活性化させるための広告物です。それで吉原が経済的に潤ったとしても、遊女たちを救済する根本的解決策にはならない。
むしろ、性売買業界に積極的に加担し、さらに不幸な遊女を増やしてしまう。ドラマはまだ始まったばかりなので早計は慎みますが、こうした加担の側面を等閑に付したまま「メディア王の功績」として最後まで扱ってしまったら残念ですね。もう大河は観ません(笑)。
こういう話をすると、反論として「現代の倫理観や道徳を押しつけるな」「当時と今は違う」という声が上がります。でも、「再現映像」ではなく、ドラマはドラマです。現代人が観るために用意された作られたフィクション作品である以上、現代の基準で観た時に魅力的であることが必要ではないでしょうか。
そうでなければ、わざわざ現代に作る意味がなくなってしまう。何より蔦屋重三郎という登場人物に私たちは魅力を覚えることができない。ドラマとして成立しない。