7万人以上の観衆が息を呑んだ

ホイットニー・ヒューストンはスーパーボウルで国歌斉唱してほしいというオファーが来たとき、すぐに音のイメージが湧いたという。

どれだけの砲弾が飛んでこようと、星条旗は折れることなく翻っているというこの歌に、幼い頃から教会で歌ってきたゴスペルのエッセンスを取り込みたいと感じたのだ。

長年にわたって彼女の音楽をサポートしてきたディレクターのリッキー・マイナーは、3拍子のワルツである「星条旗」を4拍子にしようと提案した。そうすればたっぷりと息を吸う時間が得られて、よりソウルフルな歌に仕上がると考えたのだ。

そして本番直前となった1991年1月、オーケストラによるアレンジも完成し、実際にスタジオで歌ってみて、ホイットニーらはその仕上がりに確かな手応えを感じる。

ニューヨークでモデルとして活躍していたところスカウトされ、デビューしたホイットニー・ヒューストン。写真はデビューアルバム『そよ風の贈りもの』(2015年12月23日発売、SonyMusic)のジャケット写真
ニューヨークでモデルとして活躍していたところスカウトされ、デビューしたホイットニー・ヒューストン。写真はデビューアルバム『そよ風の贈りもの』(2015年12月23日発売、SonyMusic)のジャケット写真

ところが、その音を聞いたナショナル・フットボール・リーグ(NFL)の幹部たちは難色を示した。戦時中にこのような派手なアレンジは、不謹慎ではないかと考えたのである。

1991年1月、それはアメリカを中心とする多国籍軍がイラクへの爆撃を開始。つまり、湾岸戦争が始まったばかりだった。

懸念を抱く理由はもうひとつあった。前年のスーパーボウルにおける国歌斉唱で、かつてないほどの大ブーイングが巻き起こってしまったのだ。

そうした背景もあって、NFL側はアレンジをもっと質素なものにするよう要望する。

もっとも、その要望はホイットニー側に伝わる前に、スーパーボウルのエンターテインメントを手がけるプロデューサーによって却下されるのだった。

そして本番当日となった1月27日。フロリダ州のタンパ・スタジアムには7万人以上の観衆が集まっていた。

タンパ・スタジアム、写真は2021年頃のもの(写真/Shutterstock)
タンパ・スタジアム、写真は2021年頃のもの(写真/Shutterstock)

その大観衆を前にNFLはおろか、ホイットニーとともにアレンジを作り上げて自信を持っていたリッキーでさえも、もしブーイングが起きたら、という不安に駆られた。

そんな多くの人たちの脳裏に去年のブーイングがよぎる中、ホイットニーは歌い始めたのである。

その後、彼女のこの歌声が収められたシングルはチャートを駆け上がっていった。