毛沢東の“お気に入り”だった李逵
現代中国と『水滸伝』の関わりを論じるうえで欠かせないのが「政治」の話だ。とりわけ重要なのが毛沢東との関係である。
中国の伝統文学を好んだ毛沢東は、1937年に発表した『矛盾論』や、中華人民共和国の成立前夜に発表した『人民民主専制を論ず』など、主要な論文や演説でしばしば『水滸伝』を引用したことで知られている。
「李逵は私の路線と違わぬ人物だ。私の見るところ、李逵・武松・魯智深の3人は中国共産党に入ってよい。誰も入党推薦人にならないなら、私がなろうじゃないか」
1959年8月に開かれた党第八期八中全会で、毛沢東は冗談めかしてこう述べている。彼が言及した3人は、梁山泊でも最も粗野な武闘派で、イデオロギーや打算ではなく個人的な義気から宋江に最後までついていった豪傑たちである。
毛沢東がこの発言を残した会議は、大躍進政策の失敗により実権を失いつつあった彼が、自身を批判した彭徳懐を失脚に追い込み意趣返しをしたことで後世に知られている(廬山会議)。長年の部下をあっさり切り捨てる毛沢東の行動は、この廬山会議あたりから顕著になり、やがて7年後の文化大革命で爆発することになった。
向こう見ずで荒っぽく、理屈を言わず主君に愚直な忠誠を捧げるタイプの手下を求めた毛沢東は、文革において劉少奇や鄧小平らの実権派(走資派)を追い落とし、奪権に成功している。このとき彼が武器にしたのは、まさに李逵のように、無関係な人間まで巻き込む暴力性を発揮してでも、毛沢東に徹底した忠誠を誓う紅衛兵たちだった。
やがて毛沢東は最晩年になり、お気に入りの作品である『水滸伝』すら切り捨てる行動に出る。これは半世紀近く前の出来事ながら、中国共産党の気質を考えるうえでも参考になるので、少し詳しくまとめておこう。