多すぎる登場人物と過激すぎる描写
『水滸伝』は、北宋末期(十二世紀初頭)の中国を舞台に、天然の要塞・梁山泊に集結した108人の豪傑たちの群像劇である。
主人公たる108人は揃いも揃って英雄好漢……と書けば聞こえがいいが、実態は腐敗した王朝への反発や個人的事情(ただの犯罪行為を含む)から、お尋ね者に身を落としたアウトローたちだ。要するに盗賊か、せいぜい「義賊」と呼ぶべき人たちである。
物語のメインは、豪傑たちが梁山泊に集結していく過程を描いた部分だ。その後、忠義に目覚めた彼らが、北宋王朝のために河北の田虎、淮西の王慶、江南の方臘らの反乱軍と戦うエピソードが、やや蛇足気味に付け加えられた構成となっている。
『水滸伝』の登場人物は、梁山泊の総首領である〝及時雨〟宋江以下、軍師格の〝智多星〟呉用、禁軍(近衛軍)の元教頭だった〝豹子頭〟林冲、刺青を入れた力自慢の〝花和尚〟魯智深、トラを素手で倒した〝行者〟武松、二挺の斧を振り回す暴れ者の〝黒旋風〟李逵らが代表的だ。
知名度の高い人物ではさらに、弓の名手の花栄、道士の公孫勝、後周王朝の末裔の柴進、高速移動能力を持つ戴宗、もとは官軍のエリート武官だった〝青面獣〟楊志、物語の最初に登場する〝九紋龍〟史進、女性頭領の美人剣士〝一丈青〟扈三娘などもいる──。
人名を列挙しただけでも察せられるように、現代の日本で『水滸伝』が人気のコンテンツとして成立しにくい一因は、おそらく個性の強い登場人物が多すぎることにある。
三国志も同じく群像劇だが、劉備や諸葛亮のようなストーリーの「核」がいるため、読者が最低限覚えておくべき重要人物の数は意外と多くない。
一方で『水滸伝』の場合、設定のうえでは同程度の重量を持つ人物が108人(梁山泊内でのランクが高い「天罡星」だけで36人)もおり、しかも彼らが同時に動き回る。人物が多すぎることで「キャラかぶり」があったり、序盤に活躍した人物が途中から影が薄くなったり、ほとんど描写されないまま戦死する場合があったりと、物語の構造の粗さもある。
加えて登場人物の大部分が実質的な犯罪者だけに、その行動が現代的なモラルや人権感覚からは受け入れがたいという問題もある。
たとえば、女性頭領の一人である孫二娘はもともと居酒屋の経営者で、旅人を殺して金品を奪い、その遺体を肉まんにしてほかの客に食べさせていた人物だ。
また、人気の高いキャラクターである李逵は女性や未成年者でも平気でぶち殺す殺人マニアで、同じく人気の武松も、兄を殺された腹いせに資産家の西門慶の家人を無関係な人物まで皆殺しにしている。リーダーの宋江、ヒーロー的な描写が多い林冲や魯智深らも、戦場以外の場所で殺人を犯している。
こうした前近代の中国基準の「やんちゃ」な人たちの描写は、中国の読者が読めばユーモラスだったり痛快だったりする。私たちが映画館で、ゴジラの都市破壊を喜んで見る心理とも、やや近いのだろう。
だが、現代人の良識に照らせば違和感があるのも確かだ。ほかならぬ中国においても、近年は『水滸伝』のジェンダー描写や残酷描写が問題視され、教育の場で読ませるべきではないという意見も出るようになっている。