自分との距離
―― 歴史小説と手法としては変わらないというお話でしたが、一方で特別な作品であるようにも感じられます。
どの作品にも魂を込めているつもりですし、どれもイコール自分ではあるわけですが、書き手と作品世界の距離が一番近いのは確かですね。
この作品は書き上げたあと純文学系の文学賞に応募して、一次は通過したのですが二次には残らなかったんです。本来自分が書こうと思っていたジャンルではないはずなのに、その落胆や絶望感がとても深くて、数年間、書けなくなりました。やはり力の入れ方や魂の込め方が、それぐらいの強度だったといいますか、まさに渾身の作品だったんですね。
―― 書けない期間というのは、具体的にどのくらい続いたのでしょうか。
五、六年かかりました。少し大げさに聞こえるかもしれませんが、そのときは落ちるところまで落ちたという感覚がありましたね。でも、人間落ちるところまで落ちたら上がるしかなくなる。時間を経て考えられる余地が生じてくると、このままでいいのかと自分へ問うようになり、やはり作家と呼ばれるものの末席に名を連ねてから死んでいきたいと思って、小説講座に通い始めました。当時、フリーでの仕事がとても忙しかったので、無理にでも書くという仕組みが必要だと思ったんですね。
―― そこから再び作家をめざして動きだしたのですね。
はい。小説講座で最初に書いた作品が、先ほど話に出たデビュー短編「いのちがけ」になりました。
―― 経緯をうかがうと、デビュー前とはいえ、『冬と瓦礫』は、作家の転機という意味でも重要な作品になりますね。
本当にそうなんです。その時点で全部やり切ったという手ごたえがあって、書き終えたあと、資料なども処分しました。もうこれ以上書くことはないと思ったんですね。そういう意味でも本当に魂を込め切った作品と言いますか、当時の自分の思いも技術も全部注ぎ込んだものでした。
―― 執筆にかけた時間はどのくらいでしたか。
一年弱でしょうか。二〇〇八年一月に桜庭一樹さんが『私の男』で直木賞を受賞されたことになぜか刺激を受けて。震災から十三年ということと、桜庭さんの受賞が同日の紙面に載ったのは確かなんですが、なぜ桜庭さんだったのかは我ながらよく分からないですね。自分とは作風が正反対だと感じるのですが、それゆえにか、桜庭さんの小説には魅力を感じてずっと読んでいます。
―― 資料とは別に、この震災を扱ったほかの作品はご覧になりましたか。
それはしませんでした。ただ編集者時代に、阪神・淡路大震災をテーマにした女流新人賞受賞作を担当したことはありました。岩橋昌美さんの『空を失くした日』(一九九六)という作品で、優れた小説だったと思います。
―― ご執筆までの十五年という歳月には、どんな意味があったのでしょうか。
個人的な感覚ですが、書き始めるのに十五年という時間が必要だったのだろうと思います。震災直後はもちろんですが、十年後でも小説にするには早いと感じていたので。震災から三十年になりますが、そこにもやはり節目を感じ、発表を決意しました。私はNHKの連続テレビ小説「おかえりモネ」(二〇二一)がとても好きだったんですが、東日本大震災のとき、当事者になれなかった少女が主人公なんです。今回出版に至ったのは、「おかえりモネ」に背中を押されたところも大きいですね。やはり、こういうテーマはあっていいんだ、と勇気をもらいました。
故郷への思い
―― 神戸という街が、作家としての砂原さんに与えた影響も大きいのではと感じられます。
決定的だと思います。幼少期に両親が離婚して、母の実家である神戸に引き取られたんですけど、非常に美しい街なんですよ。山も海もあり、文化的なものも多彩で、愛着を持てる要素が多い。住んでいる人の誇れるところが、たくさんある街なんですね。
―― 今作の主人公像にも反映されていますね。
主人公の境遇はほとんど自分と一緒です。私が育ったところは、主人公と同じく街の真ん中なのですが、当時歩いていける範囲に大きな規模の書店が四つありました。作中に映画館も出てきますが、これも徒歩圏内におそらく十スクリーンはあったと思います。
文化的なものがすごく身近だったんですね。そのことはとても大きくて、あの街で育っていなかったら自分は作家になっていないと、本当に思っています。
―― 砂原さんが作家性を培われた神戸の環境が、震災で大きな被害を受け、同じかたちでは残っていないわけですね。
書店は四軒のうち二軒は閉じてしまったと思います。もちろん映画館も大きな被害を受けました。私がたくさんの映画を観ていた阪急会館や神戸新聞会館も、震災の影響で閉館しました。新たなスクリーンは作られましたし、再開発もされていますが、大きく変わってしまいましたね。
―― 主人公は砂原さんとほぼ同じ境遇とのことですが、祖父に対して特別な思いを抱いていますね。
小説なので、家族や友人についても先ほど言ったように七対三くらいで事実と虚構を混ぜていますが、作中に書いた雨の日のエピソードは実際にあったことです。子どものころ、祖父に悪いことをしたという気持ちがありまして、それもこの作品を書く原動力のひとつになりました。
―― 一九九五年の阪神・淡路大震災以降もいくつもの震災が起きました。
私がこの作品を最初に書き上げた数年後(二〇一一年)には東日本大震災が発生し、今年(二〇二四年)の一月には能登半島地震がありました。当時の私と同じような立場にいる方も少なくないのではと想像します。この小説を通じ、私のような思いを抱いた方が少しでも救われたらと願っています。