「これからは若手を使え」
今から20年前の2004年、球界再編騒動を経て誕生した東北楽天ゴールデンイーグルス。
分配ドラフトによって、誰がどう見ても最下位濃厚なチームの初代監督を引き受けたのが田尾安志である。
米国スタンフォード大学卒でスポーツ評論家でもあったGMのマーティ・キーナートと二人三脚で05年のペナントに臨んだものの、4月に11連敗を喫すると、オーナーの鶴の一声でこのキーナートがいきなり、GMの任を解かれてしまった。
さらには、田尾が三顧の礼をもって招いたヘッドコーチの山下大輔と打撃コーチの駒田徳広も早々に二軍に配置転換をなされてしまう。戦力的にも負けが続いていくことは覚悟のはずであったが、辛抱できずに誰かに責任を取らせていくという理不尽な方針はこの頃からであった。
「山下さんや駒田だけに責任を押し付けるわけにはいかない」田尾は辞表を携えて球団事務所に向かったが、山下が二軍監督を了承したために思いとどまった。
それからも負けが込みだすと、オーナーは幹部を通じて監督の専権事項である選手起用にまで介入してくるようになったという。
「これからは若手を使えというのですが、ただ若いというだけで、明らかに力の劣っている選手を、結果を出しているベテランよりも優先すれば、チームに不協和音が蔓延してしまいます。負けてはいても公正な競争ができている良い空気が壊れてしまう。プロはポジションは自分で奪い取るものです」と断固として拒否をした。
2度目の11連敗を喫した後には、「次の試合で負けたら休養」とまたも代表を通じて通達された。「勝ったら、どうなるんですか」と聞くと「そのときは続投です」と返ってきたが、そもそも田尾は、たった一試合の結果で左右されるような薄っぺらい気持ちでは戦っていなかった。
「今のメンバーでシーズン全体をどう乗り切るのか。野球界のためにも50年ぶりにできた新球団を場当たり的な勝敗で壊すわけにはいかない」
田尾はオーナーとの直接の対話を望んだ。
だが、就任当時は「野球について不安や疑問があれば、人を介さずに直接お話をしましょう」とダイレクトのコミュニケーションを歓迎するとしていた三木谷浩史は電話をしても一切出ず、10月に入ると田尾は3年契約の2年を残して解任となった。
打撃の指導者として、現場では引退直前にいた山崎武司を再生させ、近鉄でくすぶっていた高須洋介を育て上げた。強化の面では次シーズンを見据えてソフトバンクの王監督、ロッテのバレンタイン監督から余剰戦力をレンタル移籍してもらう交渉をすでに済ませていた。チームの編成会議でも田尾続投は指示されて決定事項になっていたが、その30分後にまたも鶴の一声で覆ったのである。