時代によって変わる「普通」
髙橋 私にとって、校正のありがたみというのは、最後まで読んでくれたということなんです。誰にも読まれていないものを印刷することには大変な恐怖を感じます。たとえゲラに直しが一つも入っていなかったとしても、校正者の眼を通っていると思うと安心できるんです。
私は、校正者の身体には「普通」というものが宿っていると考えているんです。だから、これは、普通の言い方ではありません、普通とは違います、ということを判断してくれる。
牟田 ここで言う普通とは、日本語を母語とする日本語話者の平均、標準でしょうか。校正者のやっていることは普通の物差しを当てて、はみ出しています、足りませんと言うことかもしれません。とはいえ、「普通」の人が観るようなテレビを観て、新聞や本を読んで、森羅万象すべてにおいて普通の程度を維持するのは、一人の人間では不可能です。
髙橋 「普通」は時代によって変わりますからね。
牟田 ええ、かつては「とても良い」という言い方はしませんでした。「とても」という言葉は本来、打ち消しや否定の表現を伴って使われる語だった。でも、今ではよく見る言い方です。普通の感覚として「とても良い」という言い方はありなのか、なしなのか。
普通の物差しが辞書なんです。迷ったとき、我々は国語辞典を引く。それも1冊ではなく、2冊、3冊と引く。国語辞典には保守的な立場をとるものもあれば、新語を積極的に採用するものもあります。その中で複数の国語辞典に載っていれば、普通だと判断する。読者から問い合わせがあったときも、辞書にこのように載っていますからと説明できます。
髙橋 校正者の境田さんは辞書は根拠であるとおっしゃっていた。根拠とするために、辞書だけで7000点、(最初の近代的国語辞典である)『言海』を270点も所有しておられる。
境田さんによると、同じ『言海』でも同じ発行年月日、同じ版であっても、印刷や製本の時期がズレていたりして、内容が異なっているそうです。
牟田 そうおっしゃっていますね。
髙橋 私は自分がちょっと普通でないという自覚があります。少しおかしいという感覚です。いつも普通に読んだらどういう疑問が浮かぶんだろうと気になります。
牟田 こういう言い方をすると語弊があるかもしれませんが、本を書くのは普通でない方(笑)。普通でないから本を書くことができる。だからこそ本にする過程で普通の人の眼差しが入ることは大事だと思うんです。普通はその文章がどのような読者を想定しているかによって変わってきます。想定読者の普通にこの文章は合っているかどうか。