62年に子役デビュー後、映画やドラマなどで活躍

11月20日午前、所属事務所より火野正平氏の訃報が公表された。

その死を知り、Instagramでいち早く追悼の投稿をしたのは、今月3日に火野氏と電話で話したばかりだという俳優の中野英雄氏だ。「最後は奥様や家族に手を握られながら逝った先輩 素敵だよ」とつづり、「また向こうで後輩やらして下さい」と吐露。

他にも多数の追悼コメントがあがる中、火野氏とは幼馴染であるという俳優の小川知子氏が自身のInstagramでこのようにコメント。

「子役の頃からの知り合いで、私には本名の『二瓶康一』君の方が馴染みがあります。照れ屋さんでお茶目。そして優しい人でした。女性からモテモテという事でも有名でしたね。とても色気のある人だったので頷けます」

故・火野正平氏(写真/サンケイスポーツ)
故・火野正平氏(写真/サンケイスポーツ)
すべての画像を見る

そうして、幼馴染がまたひとり逝ってしまったことを「安らかにね。お疲れ様」と見送った。

火野正平とはどんな俳優だったのか。

1962年、子役としてフジテレビ系「少年探偵団」でデビュー。

その当時はまだ小川氏のコメントにあるように本名の「二瓶康一」で活動しており、1973年のNHK大河ドラマ「国盗り物語」の羽柴秀吉役として出演する際に作家の池波正太郎が名付け親となって、名前を火野正平と改めた。“火のように力強く”から「火野」、池波正太郎の「正」から「正平」と名付けられたという。

その後も映画やNHK連続テレビ小説への出演を果たし、1977年には歌手としてもデビューしている。

1970年代の「週刊明星」では、本人だけでなく、関係を持った女優への直撃インタビューなども頻繁に行なっていた。だがその記事からも、火野がいかに「愛されていたか」がうかがい知れる。

1975年4月13日号の「週刊明星」では、当時、既婚者だった火野氏との不倫が原因でレギュラー番組やCMなどすべての仕事を失った女優の小鹿みき氏がこう述べている。

「週刊明星」(1975年4月13日号)
「週刊明星」(1975年4月13日号)

「正平さんの家庭に立ち入ろうなんて、考えたことはありません。私は愛されているだけでいいんです」

さらに、1979年7月29日号の「週刊明星」では、その当時の火野氏と愛人関係にあり、火野氏との間に女児を出産した女優の望月真理子氏が、出産から3日後に取材を受けている。

「私は一生彼といっしょにいたいけど、たとえこの先1年で2人の仲が終わっても、あの人が“真理子という女と暮らしてよかった”と思ってくれるだけでいいんです。今は私と暮らすことが彼の大きなマイナスにならないように、かばってあげたいと思うだけ…」

産後3日の女性にこうまで言わせる男性はそういないだろう。