父と別れ、夜の街に出るようになった母
「なんでも聞いてください、安藤さん」
2022年4月、沖縄を訪れた筆者を羽賀容疑者は屈託のない笑顔で出迎えた。取材場所として指定してきたのは、沖縄・北谷町のカフェ。
今回の事件の舞台ともなった、羽賀容疑者が所有するビルがある街だ。かつて米軍基地だったこの街は1980年代に飛行場として使われていた当時の名前を引き継ぎ、「ハンビータウン」と呼ばれる商業都市に生まれ変わった。
筆者は、「アメリカ世」と呼ばれる米軍統治の時代の記憶を刻む街で、沖縄の歩みと符号するような生い立ちを持った羽賀容疑者と相対した。
「親父も彼のように若いときに沖縄に赴任してきたんでしょうね」
テラス席のそばを通り過ぎていった米軍人らしき若者に視線をやりながら、羽賀容疑者は言った。
羽賀容疑者の父親はアメリカ人で、米空軍の管制官として嘉手納基地で勤務していたという。そこで米軍基地内にある宿舎の「ハウスキーパー」つまり、メイドとして働いていた日本人の母親と出会った。
米軍統治時代の米兵、それも白人の米兵のプレゼンスは高い。家族は不自由のない生活を送ったが、任期を終えて本国に戻った父親と離れた途端、暮らし向きは一変したという。
「アメリカ兵の待遇は抜群によかったですから。オヤジと住んでいたころは衣食住に困ることはなかった。
でも、(母親は)オヤジと別れてからはハウスキーパーの仕事だけではとてもやっていけないと思ったんでしょう。夜の街に働きに出るようになりました」
母親は、当時は「コザ」と呼ばれていた沖縄市で米兵相手の「Aサイン」で働くようになった。
1950年代は朝鮮戦争、60年代から70年代にかけては、ベトナム戦争の前線基地となっていた嘉手納基地。その門前町だったコザは戦争特需で活況を呈した。
生活のために身を粉にして働く母親の姿を羽賀容疑者はこう振り返っていた。
「お袋も相当稼いだと思います。当時は、1000ドルあれば家を建てられた時代。お袋も、Aサインで働き始めてからしばらくしてコザに家を買った。
でも、相当無理をしてたんだと思います。お酒のにおいをさせて帰ってきたと思ったら、部屋の隅で静かに泣いている姿もよく見ていましたから」