うまい文章を書きたければ、誰かに直してもらえばよい
「どうすれば、うまい文章が書けるんですか?」
ある講演会で高校生にそう質問されたことがある。将来は社長になりたいという男子からの素朴な質問で、私は思わず「うまく書こうとしないほうがよい」と答えた。
うまく書こうとするとうまく書けない。うまく書こうと力むからうまく書けないのだと言いたかったのだが、よくよく考えてみると、うまく書こうとしなくてもうまくは書けない。そもそも私自身うまく書けていないわけで、正直にこうアドバイスするべきだった。
「誰かに読んでもらえばよい」
そう、誰かに直してもらえばよいのだ。私の場合、原稿はまず妻に読んでもらう。次に出版社などの編集者、そして校正者が読む。彼らが誤字脱字はもとより事実関係などをチェックし、原稿に赤字を入れてくれる。それを見ながら文章を直し、整えるのだが、そこで初めて「私」に気づいたりするわけで、文章は私が書いたものではなく、彼らとの共同作品なのだ。
チェックすることを「ケチを付ける」などとバカにする人もいるが、彼らは優れた読み手である。文章を読むだけではなく、不特定多数の一般読者はこれをどう読むか、ということも読む。
自分だけではなく一般的な読みまでも読み込むわけで、その視点が入ることで文章はひとりよがりを脱し、公共性や社会性を帯びる。彼らに読まれることによって言葉は練られ、開かれていく。
文章は書くというより読まれるもの。読み手頼みの他力本願なのだ。世の中には優れた書き手などおらず、優れた校正者がいるだけではないかとさえ私は思うのである。
実際、日本最古の歴史書・文学書である『古事記』を撰録した太安万侶(おおのやすまろ)も実は校正者だった。上巻の「序を幷(あわ)せたり」にこう記されている。
(『古事記 新編 日本古典文学全集1』小学館 1997年 以下同)
『古事記』以前に書かれていた『旧辞』と『先紀』の誤りを正す。つまり彼は過去の文献を校正したのである。
なんでも天皇が『旧辞』などを「討(たず)ね竅(きわ)め、偽りを削り実(まこと)を定めて、後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ」と命じたらしい。文章をよくよく調べて正し、虚偽を削除し、真実を定めて後の世に伝えたいということ。
まさしく校正を命じたということなのだが、『旧辞』や『先紀』などは、いまだにその存在すら確認されていない。原本のどこをどう直したのかわからず、原本があるのかないのかすらわからない。
いずれにしても私たちにとって最初にあるのは校正を宣言した『古事記』。「はじめに言葉があった」と説く聖書と違って、日本では「はじめに校正があった」のだ。
歴史を校正すると言いながら、校正することで歴史が生まれた。考えてみれば、校正するからこそ「原本」や「誤り」「偽り」「真実」などの概念も生まれるわけで、校正がなければ元も子もないのである。
「原稿」も「原(もと)」とあるように「印刷したり発表したりする文章などの下書き」(『講談社 新大字典(普及版)』講談社 1993年)にすぎず、校正を前提としている。そもそも何かを書くというのも何かを正そうとしているようで、すべては校正ではないだろうか。