殺人ではなく聖戦、自殺ではなく殉教
ハマスでは軍事部門の仕掛け人が自爆者となる若者に極秘に接触し、「殉教者」の道をたどるように説得したうえで作戦に送り出すとされる。ヤシーンが戦闘員の採用で最も重要な要素が宗教的な敬虔さだと語っていたように、もともと強い信仰心を持った若者が殉教作戦に勧誘されるのだろう。
遺書を読む限り、「殉教」は政治的な行為というよりも宗教的な行為である。コーランは殺人も自殺も禁じている。殺人ではなく神が認める「ジハード」であること、自殺ではなく「殉教」であること。この二つのタブーを乗り越えるためには、宗教者の見解が必要となる。
殉教作戦には、殉教にお墨付きを与える宗教者と、政治的、軍事的な戦略として殉教志願者を見出す仕掛け人がいる。普通の軍隊の作戦と同様に、殉教作戦を実行する戦士が政治・軍事面の戦略を理解している必要はない。
イスラムでは、「来世」を信じることは「アッラー(神)、天使、啓示(コーラン)、預言者、来世、宿命」という「六信」と呼ばれる信仰の基本であり、作戦実行者は悲壮な覚悟で殉教に赴くのではなく、神の道を歩み天国に行くという宗教的な高揚感に包まれて殉教に赴くという設定である。
一方、イスマイルの父バシールは「誰もが殉教者になるわけではない。神が息子を殉教者として特別に選び、栄誉を与えたのだ」と、息子の「殉教」を正当化した。
「殉教者は神に選ばれた存在」という意識は、息子を作戦で失った親たちが共通して語る言葉だ。イスラムの教えでは、「殉教者は天国に行き、さらに70人に神の慈悲を仲介することができる」とされる。
母親のラウダ(51)は、自爆の3日後に息子の夢を見た。息子が真っ白な服を着て現れ、城のような家で多くの召使を従えていた。「父と母のために神にお願いし、与えられたものだ」と語ったという。両親は「自分たちも息子が神にとりなし、天国が約束されている」と信じている。
自爆者は洗脳されているのだ、と思うかもしれないが、イスラエル軍の封鎖や分断が続くパレスチナでは現実への不満が強く、将来の希望も持てない。
その中で、特に宗教心が強い若者が自ら「殉教」を選ぶ。
自爆者は、次第に高学歴化する傾向にある。1990年代半ばまで大学生の自爆者はほとんどいなかったが、2000年9月に第2次インティファーダが始まってからは、半分近くが大学生になった。
イスマイルもその1人だ。遺書では父親の期待に沿えないことを謝りながらも、「世俗の成功」よりも「殉教」を選んだ心情を書く。エリート意識が強い大学生の「殉教」志願には、自爆がパレスチナ闘争の中心的地位を占めるようになったこととともに、94年にパレスチナ自治が始まってもガザの閉鎖状況は全く変わらず、むしろ悪化するばかりで、社会の展望が見えなくなっていることへの絶望が表れていると言えよう。