民主化運動に立ち上がった学生たち

1975年5月13日に朴正煕(パク・チョンヒ)大統領によって宣布された大統領緊急措置九号(維新憲法に反対すると1年以上の懲役)が1979年12月8日に解除されたことに伴い、除籍されていた学生たちが復学し、教職を追われていた大学教授たちも復職した。

1980年春、新学期(韓国の大学の新学期は3月開始)が始まると、復学した学生たちは、かつて彼らを学校から追い出した学長(日本の学部長にあたる)や総長の退陣、当局による学内査察制度の廃止、学校を〝兵営化〟する学徒護国団の廃止などを要求し、学内民主化と維新体制に協力した御用教授らの退陣を求める学内デモを行なった。

しかし、デモ隊がキャンパスの外に出ることはなかった。それが「全斗煥(チョン・ドゥファン)退陣」「非常戒厳令解除」「言論の自由の保障」「政府改憲中断」などのスローガンで政治的要求に変わったのは、全斗煥国軍保安司令官がKCIA部長代理を兼務したことで、全斗煥の政治への介入および旧体制への逆行の危険を学生たちが感じ取ったからだ。

韓国現代史上最も悲惨といわれる光州事件を引き起こした全斗煥元大統領(左)と、レーガン大統領(右)1985年ワシントンDCにて 写真/shutterstock
韓国現代史上最も悲惨といわれる光州事件を引き起こした全斗煥元大統領(左)と、レーガン大統領(右)1985年ワシントンDCにて 写真/shutterstock
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こうして学生たちのターゲットは学内から新軍部政権となり、要求貫徹の名目で警官隊の制止をふりきって市街地に繰り出すようになった。

5月13日夜、ソウルの高麗大学の学生会館に全国の学生代表が集まり、翌日から全国すべての大学が反政府の市街地デモを行なうことを決め、14日と15日に主要都市でデモが行なわれた。

ソウル駅前には10万人を超える学生が集まった。

彼らのデモは投石や火炎瓶による抵抗で、全体としては統制がとれており、過激ではなかった。ところが、15日の夜、学生代表らは市街地デモの中止を決める。市民の呼応がない状況で軍部と衝突するのは賢明でないという判断だった。

国会では5月20日に臨時国会を召集することが与野党間で合意され、戒厳令の早期解除、国会中心の憲法改正などが与野党共同で決議されるはずだった。

ところが、5月18日、非常戒厳令の全国拡大と、金大中(キム・デジュン)らの政治指導者や民主化運動の指導者たちの逮捕など、新軍部が強硬策に踏み切ったことに学生たちは不信感を抱き始めた。

そんな時に、崔圭夏(チェ・ギュハ)大統領が新軍部の圧力に抗しきれず、特別談話を発表する。

「北韓(北朝鮮)共産集団による武装スパイの継続的浸透が予想される。彼らは学外で騒ぎ、暴力化して社会混乱を起こし、社会不安を扇動した」と述べたことに憤まんが爆発。学生や市民たちは突然の強硬策に衝撃を受け、それに触発された学生たちが学外デモを始めた。

5月18日、非常戒厳令拡大発布の2時間後、光州の全南大学と朝鮮大学のキャンパスに空挺特戦団第七旅団が進駐、集会を終えて学内に残っていた学生たちを急襲し逮捕した。さらに、夜明けまでに光州の主要官庁と通り、警察、戦闘警察(武装警察部隊)、軍人隊などが配置された(作戦名は「華麗な休暇」)。