なぜか男性が少ない

「中年のきれいな女性が多い……」

参列する人たちを眺めながら、私は祈りの場に似合わない不謹慎な感想も覚えた。現場にいるのは7~8割が女性で、子ども連れも多い。女性たちは40~50代が多く、日本での滞在歴が長いようで、日本語が上手な人が多い。いっぽう、ルーマニア人の男性は比較的すくなく、むしろ男性には日本人らしき顔の人がすくなからずいる。

復活祭のクライマックス 撮影:Soichiro Koriyama
復活祭のクライマックス 撮影:Soichiro Koriyama

「留学で日本にきて、26年前に日本人の医師と結婚しました。ここにいる人は、国際結婚をした人が多いですよ」

取材に応じてくれた45歳の山本アデリナさん(仮名)はそう話す。名前からすると、すでに日本に帰化しているのだろう。他の人にも話を聞いてみると、彼女らの多くは20年以上前に日本に来ており、来日の理由は留学のほか「出稼ぎ」と語る人も目立った。

当時、ルーマニアは共産主義政権の崩壊からほどなく、経済的に厳しい立場にあった。いっぽうで日本はまだ豊かだった時代であり、ゆえに遠く離れた日本への留学や「出稼ぎ」を選ぶ若い女性が多くいたのだ。

独裁政権下を生きた出稼ぎ女性たち

ゆえに、彼女らに過去の思い出を尋ねると、往年の苦労をしのばせる話がどんどん飛び出した。

「小学生のとき、クラスで選ばれてチャウシェスクの前でダンスを踊りましたよ。でも、そのときに政府から出されたお弁当が腐っていて、肉が緑色だったんです。冷蔵庫に入れないでずっと放置していたんでしょうね」

44歳の沢村ドリーナさん(仮名)は取材にそう話す。往年、ルーマニアは独裁者チャウシェスクのもとで厳格な社会主義体制が敷かれていた。やがて1980年代後半になると、ソ連のゴルバチョフのペレストロイカを批判するいっぽう、西側とも疎遠になったことで、深刻な国際的孤立に見舞われた。

「学校の教室にはすべてチャウシェスクの写真があって、悪口を言おうものなら親が(秘密警察に)連れて行かれてしまう。生活は1986年ごろから一気に悪くなって、パン・牛乳・オレンジの配給を受け取るために一晩並ぶんです。本人が確認できないと配給を渡してくれないルールだったので、深夜4時に親に起こされて、身体に布団を巻いたまま氷点下の気温のなかで配給所に並んでいた記憶があります。停電も多かったですね」

だが、彼女は続ける。

「でも、みんな同じような環境だったし、いまよりも“しあわせ”な雰囲気があったのも確かでした。チャウシェスクの時代にはホームレスはいなかったし、マンション全体の住民が家族みたいで信頼し合っていて、お互いに足りない物資を分け合ったりして。いまのルーマニアはEUに加盟したけれど、経済格差が激しい。チャウシェスクの時代を懐かしむ人もすくなくないと思います」