真っ白なチリの正体

チャウシェスクはやがて、社会主義政権が倒れた1989年末のルーマニア革命で処刑された。ドリーナさんは革命の日、外から聞こえる銃声が怖くてテーブルの下に隠れ、親からは絶対に窓に近づかないように言われた。

「チャウシェスクが処刑されたとき、テレビを見ていて『かわいそう』と思ってしまった。なにも殺さなくていいのにって。まわりの大人を見ていても、ルーマニア革命からしばらくはみんな喜んでいたけれど、たとえ自由があってもお金がなければなにも買えないことに気づいてからは、熱が冷めていった記憶があります」

いっぽう、同じく話を聞いた村田イヴェリーナさん(44)は、幼少期に忘れられない思い出がある。それはまだ社会主義政権時代だった、1986年4月26日の朝だった。

「季節外れの雪みたいなもので、家の外が真っ白になっていたんです。チリみたいなものが数センチ積もっていて、私をはじめ子どもたちはそれを蹴って遊んでいました。温泉みたいな変な匂いがしていたのを覚えています。やがて、親から外に出るなと言われて」

真っ白なチリのようなものは、同日未明に爆発事故を起こした隣国ウクライナ(当時はソ連構成国)のチェルノブイリ原子力発電所から飛んできた放射性物質だと思われた。

「あの朝、一緒に外で遊んだ姉はまだ50代ですが、甲状腺の病気。私も怖い」

彼女の故郷は、ルーマニア北東部のモルドバ国境にあるヤシの街だ。チェルノブイリからは直線距離で500キロほど離れており、私が放射性降下物の飛散マップを確認した限りでは被害を免れているように見える(もっとも距離のうえでは、降下物が飛んでいても不自然ではない場所である)。

ルーマニアにおけるチェルノブイリ原発事故の被害は不明な部分が多いのだが、イヴェリーナさん同日の朝に確かに、独特の匂いと白いチリに包まれた街を体験した記憶がある。情報がとにかく不透明な社会主義体制のもとでは、こうした話も多い。

礼拝にならぶ女性たち 撮影:Soichiro Koriyama
礼拝にならぶ女性たち 撮影:Soichiro Koriyama

激動の時代を生きた女性たちの祈りの場所

「もういちど人生を送るとしたら、同じ生き方はしない。国際結婚は大変だし、日本での生活に慣れるのも時間がかかった」

一人が言うと、周囲の女性たちが頷いた。彼女らはこの日、日本人の夫を連れてきている人も多い。夫たちは結婚する際にルーマニア正教に改宗した人もたくさんおり、決して夫婦仲が悪いわけではないはずだが、同胞同士で集まるとそう感じてしまうようだ。別の女性もいう。

「結婚して21年になるけれど、いつかはルーマニアに帰りたい。最後は自分の国で暮らしたい」

彼女らと話していて印象的だったのは、同じように1990年代~ゼロ年代の日本に「出稼ぎ」に来たフィリピンやタイなど東南アジアの人たちと比較しても、話の内容が筋道立っていることだった。日本語も強引に単語を並べて喋るブロークンな話し方ではなく、文法や発音を真面目に勉強したことを思わせるしっかりした表現で話す人ばかりだ。

本来であれば、普通に高校や大学に行って、会社員になって結婚して……という人生のルートを歩んだはずの一般市民の女性が、国家が崩壊したことで遠い東の果ての国に働きに行くことになった。彼女らはやがて日本人の男性と結婚し、この国の社会の一員になったが、子どもが手元を離れる年齢になって遠い故郷が懐かしくなり、国立市の教会に集っているのである。

「いま、ルーマニア人はどんどん世俗的になっていて、教会に行かなくなっています。でも、年を取ってから教会に帰ってくる人がいる。(日本でルーマニア教会に来る人たちについては)教会の再発見。ある意味で『改宗者』のような存在だといえるでしょう」

ダニエル神父はそう話す。30数年前の東欧諸国の激変が、回り回って国立市富士見台の教会を動かしている。

富士見台の信仰の場を支えるダニエル神父 撮影:Soichiro Koriyama
富士見台の信仰の場を支えるダニエル神父 撮影:Soichiro Koriyama
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