サイバーパンクの先駆者に

『電気羊』の面白さは、誰がアンドロイドで誰が人間なのか、次第にわからなくなってくるところだ。警官デッカードは警官に逮捕されてしまう。

警官たちはデッカードがバウンティハンターとしてのニセの記憶を植えつけられたアンドロイドだと言う。デッカードは自分は人間だと思うが、それがニセの記憶ではないと自分でも確信できない。

「自分は自分でないかもしれない」「いや、存在すらしないのかもしれない」「自分は他の誰かの夢の登場人物かもしれない」。フィリップ・K・ディックはそんな不安を繰り返し描いた作家だ。

たとえば『流れよわが涙、と警官は言った』の主人公はある日、突然、自分に関するあらゆる記録がなくなってしまう。彼が彼であることを証明するのは彼の記憶だけだ。しかし、その記憶も作り物なのだとしたら?

『流れよわが涙、と警官は言った』(1989年、早川書房)
『流れよわが涙、と警官は言った』(1989年、早川書房)

「にせ者」の主人公はある日突然、敵のスパイとされてしまう。敵は自分そっくりのクローンを作って本物の自分と入れ替えた。それが自分らしいのだ。自分が自分であるという意識も記憶もコピーにすぎないというのだ。

アメリカのサイエンス・フィクションの世界でディックは異端だった。あまり科学的ではなく、SF的アイデアやパルプ・フィクションのスタイルを「現実とは何か」「人間とは何か」という実存的不安を描くための道具として利用していただけだったからだ。

そのため映画『ブレードランナー』公開直前の82年3月に死ぬまで経済的には不遇だった。しかし、ヨーロッパではカフカと同じく不条理を描いた作家として読まれており、死後、アメリカでもサイバーパンクの先駆者として評価された。