自己責任に帰することの違和感

極めて高度なレベルの戦いを一度のミスもなく切り抜け、そのたびに環境によるハンデを直視し続ける人生は、生きづらくはないか。筆者のそんな不躾な指摘にも、R.Shimada氏は極めて理性的に答える。

「確かに、私は生きづらさを感じています。精神的に病んだという自覚こそありませんが、微熱が1ヶ月ほど続くなどの身体反応としてあらわれることがあり、ストレスを感じていることを認めざるをえないでしょう。

私が思うのは、人間が自分のために怒りを継続させるのには、限界があるということです。私はいつからか、自分が辛いことは仕方がないと思えるようになりました。

けれども、同じく学びたいのに環境のせいでそれが叶わない後進がいる社会の実情には、我慢がなりません。次の世代の才能が潰されていっていることに、あまりに社会が無自覚だからです。そして社会に生きる人の多くが『仕方のないこと』と諦めたり、『貧しいのは自分のせい』と矮小化して自己責任に帰そうとしたりすることに、強い違和感を覚えます」

貧困問題のイメージ 写真/Shutterstock.
貧困問題のイメージ 写真/Shutterstock.

貧困問題などにおいて、必ずと言っていいほど持ち出される自己責任論。複雑に絡み合った因子があるにも関わらず、個人や世帯だけの責任にしていく世の中に対して、R.Shimada氏はこんな独自の視点を提示する。

「たまに、『世の中、たちの悪い数学者みたいだな』と思うことはあります。数学という学問は、本来もっと複雑な事象を単純化して考えるという側面があります。あるいは、現実にはありえない極端な設定にして思考を一旦単純化するんです。そのとき、要素を削ぎ落とす作業があります。もっとも、数学の場合は、考慮すべき重要な要素を削ぎ落とすことは通常しません。

しかし貧困に対する世の中の議論をみていると、『重要な要素を削ぎ落として雑な議論をしたために導き出された結論』になっていると思うことがままあります。本当はさまざまな変数を考えなければならないのに、それをばっさり切ってしまうから自己責任に帰結する。そんな風に思います。

だから、生活保護世帯から数学者になれたという私の例が、『貧乏でも頑張れば成功するから、成功していない人間は努力が足りない』と自己責任論に使用されることを私はもっとも懸念し、嫌悪します」

 

#2へつづく

取材・文・写真/黒島暁生