勉強をすれば、母に「迷惑」がかかるのではないか
塾の同級生たちには笑い者にされたが、「起きている間はずっと勉強をしました」と語るほどのまくりを見せ、入塾わずか一ヶ月ほどでトップに登りつめると、県内トップの公立進学校へ入学を果たす。15歳のR.Shimada氏が描いたビジョンはもはや予言と言ってもいいくらいに的中していく。
「私は15歳のとき、数学者になろうと考えました。そのためには大学進学後、独立して生計を立てる必要があります。国公立大学の授業料免除制度を利用し、学生寮に入居し、条件のよい給付型奨学金を得ることができれば、実現できます。当時、条件のよい給付型奨学金は文系の難関大学に限られていました。そこで私は、東大に文系で入学し、理系へ転向する計画を立てたのです」
“理転”と呼ばれるこの方法は、制度こそあったものの、進学先の文科Ⅲ類からの転向は東大史上前例のない挑戦だった。だがここでも、猛勉強の末に関門を突破してしまう。
もうひとつ、15歳のR.Shimada少年が数学者になりたいと考えた理由に聡明さが光る。
「数学を学び始めた当初、おもしろいとは思いましたが、研究する将来は見えませんでした。なぜなら、人間が作った数学という法則を学んでいるにすぎないと思っていたからです。たとえば将棋そのものはおもしろいとしても、駒の動かし方は人間が決めたことであり、そのルールを研究するのはおもしろくないでしょう。
しかしその考え方が間違いだったことを、私はある書籍との出会いで知ることになります。『ある数学者の生涯と弁明』と題されたその書籍には、数学が自然界の法則にしたがっていることが書かれており、私はがぜん興味がわきました。明確に『数学を研究したい』と意識したのは、このときです」
前代未聞の東大の数学科への転科に成功し、内部進学者の半数が落ちるとされる大学院試験に合格したR.Shimada氏は、大学院生のなかでも特に優秀な成績を修めた者しか獲得できないリーディング大学院(給与が支払われる修士課程の仕組み)に選出される。
だが決して前途洋々とそのキャリアを築いたわけではない。さまざまな給付金制度を組み合わせながら、相当時間のアルバイトをこなし、かつトップクラスの成績を維持し続けなければ、経済的な事情からいつ退学せざるをえなくなるともしれない。節目節目でそうした現実を直視してきた。こうしたプレッシャーもさることながら、別の精神的負荷に悩まされることもあったという。
「私が勉強を続けることで、母に『迷惑』がかかっているという意識は常にありました。そもそも大学進学を望まず、数学者になりたいという夢も持たず、大人しくアルバイトをして家計を助けていれば、母は困っていないのかもという思いはありましたね。
そうした思いを跳ね返すには、『自分には数学者の才能がある』と思い込んで、すべての局面において才能を証明しなければなりませんでした」