「あの歌ね、ホントはぼくのところにきたんだけど…」
身長が高くてルックスがよかったこともあり、業界内での評判は上々だったので、テレビの音楽番組への出演もすぐに決まった。
ところがその収録スタジオでのこと。
元カーナビーツのドラムで、ボーカルを担当していたアイ高野に声を掛けられた。そこで『恋する季節』に関して、思ってもみなかった事実を伝えられたのである。
「あの歌ね、ホントはぼくのところにきたんだけど、気に入らなくてボツにしちゃったんだよ。ハハハ!!」
デビュー曲が先輩バンドマンの”お下がり”だったなんて。少年はポカンと口を開けたままだった。それだけでなく、アイ高野が唄うことを想定して、ファンに喜んでもらえるようにと、粋なアレンジが施されていたことを知る。
サビの終わりで「つぼみなら柔らかく抱きしめよう」と唄った後に、ホーンセクションがメロディーを追いかけるところで、カーナビーツのヒット曲『好きさ好きさ好きさ』の中の一節が流れるのだ。
アレンジも含めて、アイ高野の面影を感じさせるデビュー曲に、西城は一人で悔しさを噛み締めるしかなかった。
さらに『恋する季節』は、ヒットチャートでは最高42位という結果に終わり、新人・西城秀樹にとっては苦い思い出となってしまった。
それから間もなくして、派手な振り付けを取り入れたことで、ヒット曲に恵まれ始めた西城は、一気にトップアイドルの仲間入りを果たしていく。
しかし筒美京平の曲を再び歌う機会はしばらく訪れず、1979年の『勇気があれば』まで待たなければならなかった。
西城はそこから30年以上もの時を経て、病で2度も倒れながら、懸命のリハビリで立ち直り、現役に復帰した。
そして還暦を記念するアルバムを制作する時に、どこか不本意な思いが消えなかったデビュー曲を、「自分の作品」として完成させることに挑んだ。
微かな心の傷痕を、新しいサウンドと歌唱によって、乗り越えるためだったのだろう。
デビュー当時からさまざまな洋楽をカバーして、音楽面で自分の世界を切り拓いてきた実績、大人のシンガーとして重ねた経験、そしてこの曲に対する愛情が、それを可能にしたのだと思う。
西城秀樹は最初から最後まで、歌手であると同時に表現者であったのだ。
文/佐藤剛 編集/TAP the POP サムネイル画像/1972年3月15日発売『恋する季節』(RCA/日本ビクター)より
引用:「のどもと過ぎれば」(産経新聞)、『誰も知らなかった西城秀樹。』(青志社)