警備会社セコムが毎年行う「日本人の不安」という、お題だけで不安になる調査。心配事のほぼ不動のトップは「老後の生活や年金」だ。2020年こそ新型コロナウイルスにトップを譲ったが、21年調査ではめでたく首位奪還を果たした。いや、めでたくはないが。
人生100年時代。今年50歳の私も「まだ折り返し点か」とため息が漏れる。三姉妹の学費もピークを迎えつつある今、お金の心配は尽きない。
だが、しかし。
この「老後のお金の心配」は、日本経済全体の問題として大きな構図で考えると、実はちょっとポイントがずれている。それを教えてくれるのが『お金のむこうに人がいる』(田内学)だ。
著者は繰り返し、「老後資金が足りない」は見かけ上の問題であって、本質はその国が産み出せるモノやサービス、「お金の向こうにいる人々」が提供する価値にあると説く。
高齢化で働き手が減って経済の地力が落ちることこそ問題の根っこであり、高齢者がいくら「お金」を貯めても、国の経済自体の足腰が弱っては、豊かな老後など望めないという見立てだ。
「年金制度はマクロ経済と一蓮托生」は私の持論だ。「年金制度は破綻が避けられない」という主張は、あまり意味がない。公的年金が破綻するなら、そのときには日本という国全体が回らなくなっているはずだ。目を向けるべきは経済システム全体だ。
田内氏の指摘と私の持論は、「個人がお金を貯めても本質的な問題は解消できない」という点で共通する。日本経済が没落しても、一部のお金持ちは逃げ切れるかもしれない。でも、現役世代と大多数の庶民が一緒に幸福になれる未来を描けなければ、社会や経済にとっての最適解は見えてこない。
「お金のむこうの人」に目を向ければ、大きな視点で冷静になれる、かもしれない。
さて、再びしかし、だ。
私の心の奥には、「長期では、我々は皆、死んでいる」という経済学者ケインズの名言もこだましている。
人間、死んだら、チャラだ。蓄えや備えがないと、伴侶や子を残して世を去る不安は消えないかもしれない。でも、そんな思いも含めて、死ねば全ては無に帰す。
山田風太郎の『人間臨終図巻』は、古今東西の著名人の末期の姿を蒐集した名著だ。これを読めば、極端な貧困に苦しんだ悲惨な例はあるものの、人の死に様や晩年の幸、不幸に、「お金」が果たす役割はさほど大きくないことが分かる。歴史に名を残す偉人・英雄・怪物ですら、そうなのだ。
それはそうだろう。最後は、銭勘定だけなら、チャラなのだから。
「老後のお金の不安」は部分最適の視点でしかない。もし、社会の一員としての責務まで思いが及ぶなら、我々にできるのは「ちょっとはましな世界」のバトンをつないでいくことくらいだろう。
そして、個々人で見たって、幸、不幸は「たかがお金」では決まらないのだ。
と、言いつつ、老後どころか目先の家計のやり繰りに四苦八苦するのが人生。
2兆円ほどあれば、私の心労も消し飛ぶのだけど。