「放射能がきた」と陰口を言われることも

福島第一原発事故があった当時、石井さん一家は8人で暮らしていた。石井さんの両親、それに長男夫婦と孫2人だ。震災の日、偶然にも、長男夫婦と孫は新潟におり、そのまま新潟で避難生活を続けることになった。

浪江町の石井さん一家も、すぐに避難するよう指示が出ていたが、隆広さんの両親はこのまま自宅で暮らしたい、避難しなくてもいい、とかたくなに逃げることを拒否した。そのとき隆広さんは、こう声を荒げたという。

「何言ってんだ、自分の命を守るのは当たり前だべ」

こうした隆広さんの説得もあり、両親は福島県内の温泉施設へ一時的に避難。その後は仮設住宅に入ることになった。

一方、隆広さんはしばらく自宅に残り牛の世話を続けたが、県は、福島第一原発から20キロ圏の警戒区域にあった浪江町の酪農家に対して、同意のうえで家畜を殺処分にするとの方針を示した。トラックで運ばれていく牛たちを、隆広さんはじっと見つめた。悲しそうな目をした牛の姿は今も頭から離れない。

牛のいなくなった牛舎に立つ隆広さん
牛のいなくなった牛舎に立つ隆広さん

生きがいでもあり、生活のすべてだった牛が牛舎からいなくなると、隆広さんは仮設住宅に入った。避難生活が始まったのである。一方、妻の絹江さんは浪江町から車で約1時間半かかる本宮市のボロボロになったアパートで暮らすことになった。

絹江さんがいう。

「仮設住宅は町民のためのものですから、私たち町の職員が入ることはできませんでした。そこで、雇用促進住宅を自分で見つけてきて、何とかお願いして知人の看護師さんと、そこで暮らすようになりました」

こうして石井さん一家は、離ればなれで暮らすことを余儀なくされた。

「お父さんは食事の用意も自分でできないし、家事もまったくやらない人なんです。当時、三男が独身でしたので、お父さんと一緒に仮設住宅で暮らし、身の回りの世話をしていました」(絹江さん)

福島市内の農園
福島市内の農園
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震災後、絹江さんは配置換えとなり、町が運営する仮設の診療所で事務員として働くことになった。

「当時は、避難している町民が別の街の病院に行くと、『放射能がきた』と陰口を言われることもありました。何としても浪江に診療所を再開させなければということで、仮設の診療所を町がつくったんです」(同)

その診療所に従事する医師を見つけてきたり、レントゲンの機械を導入したりと、絹江さんは町の職員として病院での仕事に奔走した。

そんな生活がしばらく続き、やっと夫婦が一緒に暮らせるようになったのは、約2年半後のことだった。しかし、購入した福島市内に建つ一軒家も、石井さん夫婦にとって住みやすい場所にはならなかった。

(後編に続く)

取材・文/甚野博則
集英社オンライン編集部ニュース班
撮影/Soichiro Koriyama

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