格段の人望

多くの困難にあいつつも、なぜ池田は巨大教団のトップに君臨し続けることができたのだろうか。

池田が会長を退いてから就任した名誉会長という地位は、池田のために設けられた特別なもので、創価学会の作成した組織図にも出てこないものだった。会長との上下関係が明確にされることもなかったが、会員からの人望は厚かった。

また池田は、最期まで創価学会の国際組織である創価学会インタナショナル(SGI)の会長職にあった。SGIの著名な会員たちは、来日するたびに池田を表敬訪問した。グラミー賞を受賞したジャズ・ピアニストのハービー・ハンコックやサックス・プレイヤーのウェイン・ショーターは、池田の前で演奏するためだけに来日したこともあった。

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オーランド・ブルーム

映画『ロード・オブ・ザ・リング』や『パイレーツ・オブ・カリビアン』に出演したイギリスの人気俳優オーランド・ブルームは、2004年にSGIに入信し、2006年夏には創価学会の長野研修道場で池田夫妻に面会した。彼は2009年秋にも来日し、本部幹部会で池田に再会している。たまたま私は、このときの本部幹部会の中継を見ている。ブルームの嬉しそうな顔が印象的だった。

池田が、会員たちから厚い信頼を得てきた背景には、国内外を問わず、各地を頻繁に訪れ、会員たちと直接に交流していたという事実がある。国内でもっとも頻繁に訪れたのが関西で、なんとその回数は258回にも及んだ。中部にも100回以上出向いている。

抜群の記憶力を持つ池田は、地方の会員でも、一度会えばそれを覚えていて、会員を感激させた。会員に慕われるのも、そうした細かな気配りがあってのことである。

高齢になってからは、地方に直接出向くことはなくなり、まして海外を訪れることはなくなった。その代わりとなったのが、本部幹部会の衛星中継だった。これは、幹部会を録画したものを、一定の期間、各地域にある創価学会の会館で放送するもので、「本幹(本部幹部会の略)」、「同放(同時放送)」、「同中(同時中継)」と呼ばれるようになっていく。

そこでの池田のパフォーマンスについては、第3章で詳しくふれるが、池田のスピーチは実に巧みで、会員のこころをたちどころにつかんでしまう魅力にあふれていた。

その点は、彼の師である戸田と似ていた。ただし、体つきのせいかもしれないが、戸田に比べて池田の方がはるかに威厳を備えていた。庶民的という点では共通しても、池田は、古今東西の文学作品や有識者のことばを頻繁に引用し、仏教思想についても博識なところを示した。会員とのやり取りにしろ、包容力という観点からは、池田の方に軍配があがった。

会員たちも、戸田に対しては気さくに接していたが、池田に対しては、畏怖の気持ちを抱いているように見受けられた。創価学会の熱心な会員で、芸術部の副部長である芸能人の久本雅美が涙ながらに池田の話を語る映像がネット上に流されたことがあったが、そうしたことが起こるのも、会員にとって池田が偉大なカリスマだったからである。

2007年の正月、ほとんど人がいない創価大学のキャンパスを、車に乗った池田が視察に訪れた。そこに出くわした人物は、「たとえ学生がいなくても、自分が創立した大学のことをつねに見守っている池田の姿に感動した」と語っている。

ただし、これを伝えたのは「聖教新聞」であり、話全体が、さりげない形での池田のイメージアップになっていた。それでもこの記事を読んだ会員たちは、親身になって学生たちのことを思う池田の姿に感銘を受けたことであろう。

「聖教新聞」や「潮」「第三文明」といった創価学会系のメディアは、つねに池田を偉大な宗教家、思想家、教育家として称揚し続けた。晩年には、とくに平和思想家としての面が強調された。池田が受賞した平和運動関係の賞としては、インドの国家的機関、アジア協会からの「タゴール平和賞」(1997年)や、国連NGO、世界平和国際教育者協会からの「アルバート・アインシュタイン平和賞」(1999年)がある。

これに対して、創価学会に批判的な人間は、池田はノーベル平和賞の受賞を目的として実績作りに奔走しているととらえてきた。