「ニュースの時代」の到来を確信した瞬間
電通の支持を取り付けて、OTOの海老名俊則さんは企画書を持って在京キー局を回った。最初に企画を持ち込んだのは、僕の古巣のTBSだった。理由を聞くと「それは礼儀です」。放送メディアといっても動かしているのは人間だ。仁義と礼節は欠いてはならないという。
ほどなくしてTBSからは断られた。報道は放送局にとって、いわば「不可侵の領域」。なかでもTBSは、NHKと並ぶ全国ネットワーク「JNN」を有し、「報道のTBS」と呼ばれる民放の雄だ。
それまでのニュースキャスターといえば、たとえば元共同通信社記者の田英夫さんや、NHK記者の磯村尚徳さん。いずれも取材経験を有した報道畑出身だ。TBSのアナウンサーからフリーとなった僕が報道番組を仕切る企画など、問題外だったに違いない。
在京キー局のなかで、もっとも敏感に反応したのがテレビ朝日だった。テレビ朝日は東京・六本木のアークヒルズへの本社移転に伴って、最新鋭の放送設備を備えたテレビスタジオを新設する予定があり、その開設を記念する大型の目玉企画を模索していた。
テレビ朝日の報道局の歴史は浅い。1959年に前身の日本教育テレビ(NET)が開局し、テレビ朝日になったのが77年。ニュース制作については78年まで朝日テレビニュースが担当し、NET報道部は小規模な組織として推移していた。
「木島則夫モーニングショー」「桂小金治アフタヌーンショー」といったワイドショーの開拓でネットワークを広げてきたテレビ朝日にとって、司会者のキャラクターを中心に据えた生放送の情報番組はもともと得意な分野だった。
そのワイドショーのチーフ・プロデューサーを務めたのが小田久栄門さんであり、報道強化路線の牽引役として知られていた。
当時、情報・報道番組は局内で主流からはずれ、「プライドが高く金ばかり食う」と白い眼で見られていた。小田さん自身、NHKやTBSの報道に感じる「上から目線」に以前から反発を覚えていた。自社の報道局における視聴者不在の報道姿勢にも疑問を抱き、報道番組改革の必要性を痛感していた。
アメリカのアトランタに80年に開局したケーブルテレビ向けのニュース専門局「CNN」を視察した小田さんは、24時間絶え間なく流れるニュース映像を見て、「ニュースの時代」の到来を確信する。
日本で初めてCNNと契約したテレビ朝日は、国際ニュースの生映像をいつでも入手できるという絶好の環境にあった。このCNNとの契約で入手できた国際ニュースの生映像が、のちに『ニュースステーション』で絶大な威力を発揮することになる。
ただし、後発局のテレビ朝日には当時、系列のローカル局が少なかった。日本テレビの29局ネット、TBSの25局ネットに対して、テレビ朝日は12局ネット。これでは事件・事故が起こっても初動取材が立ち遅れ、日本国内の取材網という点では不安が残る。
しかし、僕はむしろこのことを前向きにとらえていた。テレビ朝日のネット局は札幌、仙台、首都圏、名古屋、大阪、瀬戸内地方、福岡といった都市部に限られる。となれば、NHKのように全国津々浦々に配慮した全方位の報道ではなく、都市生活者に向けたニュース番組をつくることができる。
いくつかの偶然が重なって、新しいニュース番組の企画はテレビ朝日が手掛けることになる。正式に決まったときには、放送開始まで1年を切っていた。
『ニュースステーション』は、広告代理店(電通)、放送局(テレビ朝日)、制作会社(OTO)という三者の方向性が一致した結果生まれたプロジェクトだった。それぞれのキーマンのうち一人でも欠けていたら、番組は生まれていなかっただろう。