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ラジオの深夜放送で知った、アナウンサー募集のお知らせ

冷やかしで試験を受けてはみたものの、TBSに入ることができるなんて万に一つもあり得ないと思っていた。アナウンサー試験には、既卒者も含めて何千人もの受験者が押し寄せる。ここから選ばれることなど宝くじに当たるようなものだ。しかも大学の成績は目も当てられなかった。

僕が早稲田大学を卒業したのは1967年。全国の学園紛争に先駆けた「第一次早大闘争」があった翌年だったから、早大の卒業生はおしなべて就職に苦労した。在学中の僕は演劇とアルバイトに明け暮れたノンポリ学生で、全学ストやバリケード封鎖による休講を理由に、これ幸いと大学に顔を出さなかった口だった。

元TBSアナウンサー・久米宏が「受かるはずがない」と思って臨んだ就職面接で役員にブチぎれられた理由「あいつが入社してきたら、とっちめてやる」_1
早稲田大学の外観 写真/shutterstock.
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大学の演劇仲間には長塚京三さんや田中眞紀子さんがいた。一つ下に吉永小百合さんが入学してきたときは大騒ぎだった。授業中「今日は授業に出ているらしい」と書かれたメモが回ってくる。そんなときは先生さえ気もそぞろだった。当時は知らなかったが、同期には中村吉右衛門さん、下にはタモリさんがいた。

大学4年になると、一緒に遊んでいた仲間が就職活動で忙しくなる。僕は漠然と演劇プロデューサーになりたいと思っていた。とはいえ、親を心配させないためにも1、2社は受験しなければと考えていた。ところが受験しようにも、当時は大学の就職部に希望を出して推薦をもらわなければ採用試験さえ受けられなかった。

元TBSアナウンサー・久米宏が「受かるはずがない」と思って臨んだ就職面接で役員にブチぎれられた理由「あいつが入社してきたら、とっちめてやる」_2
小学6年生のときにデビューした吉永小百合は、80年代にはすでに大女優となっていた(「週刊明星」1988年9月29日号より)

そんなときにラジオの深夜放送を聞いていると、アナウンサー募集のお知らせが2社あった。これなら就職部を通さずに、新卒も既卒も受験できる。まずニッポン放送を受けたが、最終面接の日に寝坊して遅刻した。地下鉄の日比谷駅の階段をほとんど無呼吸で駆け上がっていった瞬間を、今でもはっきり覚えている。目覚ましすらかけていなかったのだから、最初から緊張感に欠けていた。残された1社が、以後お世話になるTBSだった。

NHKが日本で初めてテレビ放送を始めたのが1953年。同じ年、日本テレビが民放初のテレビ放送を始め、TBS(当時はラジオ東京)は2年遅れでスタートを切る。元内務官僚の正力松太郎の主導で財界のバックアップを受けて設立された日本テレビと比べると、新聞各社が出資したTBSは比較的リベラルな報道姿勢を持った放送局だった。「報道のTBS」とか「民放の雄」と称されて、民放界をリードする存在でもあった。

といっても、当時の僕はそんなことはまったく知らず、今度はとにかく遅刻しないよう、毎回1時間前には必ず試験会場に到着するよう心がけた。