「日本の国歌には相応しくない歌手」だと非難を浴びた

9月18日。東京体育館では海老原博幸がタイのポーン・キングピッチに挑戦する、世界フライ級タイトルマッチが行われた。

日本中が注目していたこの試合のセレモニーで、坂本九は『君が代』を独唱することになっていた。緊張した面持ちの坂本九はその夜、リングの中央に立つと両手を後ろに組み、目を閉じて『君が代』を歌った。

ところがその独唱が終わった後に、一部の人が日本の国歌には相応しくない歌手だということを口にした。ロカビリー歌手の歌唱法がどこか気に入らなかったらしい。ウィーン少年合唱団におけるステージ・マナーをお手本にして、両手を後ろに組んだ姿勢も「日本男児らしくない」とも言われた。

そのために観客からの「きちんと声を出して歌っていなかった」「本当は歌唱力がないのではないか」という声などが、マスコミに取りあげられて騒ぎがひとり歩きしていった。

「『君が代』を歌うのにふさわしくない」と非難された坂本九…歴代最高視聴率81.4%の第14回紅白歌合戦で人気者・九ちゃんが笑顔を封印して歌ったワケ_3

確かに厳粛に歌わねばならないという意識が強すぎたせいか、その晩の坂本九の声にはいつもの伸びがなかったかもしれない。低音がほとんど聴き取れなかったことも含めて、ぶっつけ本番なのにキーが合っていなかったことが原因だった。

吹奏楽曲のメロディーに日本語の歌詞を後でつけた『君が代』と、ロックンロールのビートで歌って世界に通用した歌手の坂本九は、初めからミスマッチだったのだ。

だがそうした事情への配慮はなされず、あまりにも幸せに見える若きスターに対して、この時をきっかけに世間のひがみとねたみが吹き出した。

それがマスコミによって増幅されていったあたりの事情について、兄の坂本照明が著書「星空の旅人 坂本九」(文星出版)でこう述べている。

批判の矢面に立たされるという経験は、九にとって始めてのこと。それだけに大きなショックを受けたようでした。テレビ中継が終わった後の取材に対しても、九はただただ謝るしかありません。

しかし、九を弁護してくれる人もいました。坂本九の「君が代」はあれでいいのではないかと。スターになれば「見えない敵」も出てくるし、九がロカビリー出身であることに対する偏見もあるのではないかと。

事実、ロカビリー歌手は普通の歌手とは違うと、テレビ出演を断られるという時期もありました。そんな中で、九は最初にテレビに出演したロカビリー出身の歌手でもあったのです。

この事件は、その後、「君が代」をきちんと歌えない人間は日本国民ではないのかという論争にまで広がりました。九はそのショックの中で、アイドルからの脱皮の時が来ているのではないかと考え始めていたのです。