祖母の死を境に息子への当たりが強くなっていった
葵は、塾に持っていくお弁当をつくったり、塾に遅れそうなときに車で送り届けたりというサポートはしたが、ソウタの勉強の管理をしたり、丸つけをしたり、いっしょに問題を解いたりということまではしなかった。
受験指南書を読み漁り、あの手この手でわが子に勉強させ、なんとか偏差値を引き上げようとする類いの教育ママではない。絶対に御三家に入りなさいだとか、偏差値60以上の学校じゃないと意味がないとか、そういう偏差値至上主義的教育観にも侵されてはいない。
まして、ママ友とファミレスに集まってドリンクバーを何杯もおかわりしながら、誰それが御三家を諦めたらしいだとか、Sピックスについていけなくて個別指導一本に切り替えたらしいとか、あのお母さんは家庭教師の先生と怪しい関係だとか、子どもを模試会場に送り届けた父親がそのまま若い女と待ち合わせしてホテルに入っていくのを見ちゃっただとか、中学受験のゴシップに花を咲かせるようなタイプでもない。
わが子にできるだけいい教育環境を与えたいと願っているだけの、ごくありふれた母親である。ただしちょっとだけハイソで育ちが良く、いわゆる中間層の競争社会とは無縁なのだ。
成績は相変わらずだが、宿題をこなすペースがようやくつかめてきたちょうどそのころ、葵の母が亡くなった。膵臓ガンだった。若くして夫を亡くし、その遺産を相続して、女手ひとつで3人の子どもを育てたビッグマザー。末っ子の葵は、一卵性母子といわれるくらい、母親との仲が良かった。その偉大で親愛なる母を失った葵の心には、ぽっかりと大きな穴が開いた。
そのころから、葵のソウタに対する当たりが強くなっていった。毎週の小テストの結果にしつこく文句を言い、定例試験の結果に泣きわめく。早起きして取り組むことになっているドリル問題でソウタが間違えると、家の中には怒号が飛んだ。それが毎朝のルーティンになっていった。
「なんでこんな簡単な問題ができないの?」
「ちゃんと考えなさい!」
「そんな態度だから何度やってもできないの!」
「ちゃんとやる気を出しなさい!」
「はい、やり直し!」
ある朝、恐怖で思考が停止し体は硬直し、ソウタは死んだような目からただ透明な液体を分泌して、ダイニングテーブルに座っていた。ここまでは珍しくもなんともない。しかしその日、葵の怒りは暴走した。
「もう、死ねよ」
たまりかねた竹晴が二人の間に割り込み、ソウタを両腕で包みながら、静かに、しかし腹の底から言った。
「もうやめよう」
すると葵は黙ってキッチンに向かい、何事もなかったかのように朝食の準備を続けた。そして何事もなかったかのようにソウタを小学校に送り出す。表情にも言葉にも感情がまったく表れない。竹晴に対しては、まるで透明人間であるかのように、その存在自体を無視した。
以降、夫婦とソウタはどんな受験を迎えるのか? 続きはぜひ書籍でお楽しみください。
※本記事は、『中受離婚 夫婦を襲う中学受験クライシス』(集英社)を編集部が一部抜粋・再構成したものです。また本書は多数の取材を元にしたセミ・フィクションで、取材対象者のプライバシーを配慮し、登場人物や学校名などはすべて、近しい別の学校や塾などに変更したうえで仮名表記としています。受験の年次なども一部変更しています。
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(構成/よみタイ編集部)