黒田清隆、伊藤博文――妻を酔って斬り殺す?
鹿鳴館で強制わいせつ?
20世紀末までは、都内のターミナル駅には昼夜を問わず、カップ酒片手にふらふらしながら怪しい目つきをしたオジサンがいた。通りすがる人々に「てめえ、なにしてんだよ、バカヤロー」などと絡んだり、奇声を発したりしていた。叫んでいたり、怒ったりしている方向には誰もいないだけに恐怖を感じたが、彼らのような種族は一体どこにいってしまったのだろうか。
「酒を飲まなければいい人」は昔から無数に存在する。確かに、酒を極度に飲んでいる状態とは脳が麻痺した状態なので、「いい人」でなくなってもおかしくない。社会規範を守ろうという意思が人によってはぶっ飛ぶ。暴言を吐いたり、暴力を振るったりするのも脳がまともに機能しないから防ぎようがない。
だから、酒乱の政治家にマトモであることを求めてはいけない。彼らは病気なのだ。「そもそも、政治家の大半はマトモでないし、酒を飲もうが飲むまいが関係ない」という考えもあるかもしれない。しかし、酒を飲んだ勢いで妻を斬り殺した疑惑をかけられた政治家は、近代以降では黒田清隆しかいないだろう。
黒田は、1840年に薩摩藩の最下級武士の家に生まれる。戊辰戦争では鳥羽伏見から五稜郭まで転戦している。陸軍中将、参議、北海道開拓長官を歴任し、西南戦争では征討参軍として、戦功を立てる。西郷隆盛、大久保利通の死で薩摩派の頭領になり、1888年に伊藤博文の後を受け、2代目の内閣総理大臣に就任した。
黒田は刀が趣味で、酒を飲みながら刀を抜くなど少しばかりクレイジーなところがあった。だが、時代が時代だ。少し前まで、戦場どころか、いきなり路上で見知らぬ相手に斬りかかっていたわけだから、刀を抜くぐらい大した問題ではない。
さて、肝心の妻殺しだが証拠はない。恐ろしいのは、それにもかかわらず、「黒田は妻を殺した」とほぼ事実として言い伝えられていることである。
1878年3月の夜、泥酔して帰宅した黒田は、出迎えが遅いと腹を立て、妻・せいを斬殺したと伝えられる。せいは旧幕臣旗本の娘で23歳だった。
当時38歳の黒田は新政府最高位の参議の1人。黒田による惨殺疑惑を、新聞「団々珍聞」がスッパ抜いたことで世の中は騒然となる。辞任は免れぬ情勢だったが、時の最高実力者で同じ薩摩出身の大久保利通が、もみ消しに走る。
腹心の大警視の川路利良が自ら黒田夫人の墓を暴いて検視に当たる。川路は掘り起こした後に、辺りをにらみつけながら、「他殺の形跡なし」と報告して一件落着したという。川路がこの時、何を思ったかを伝えるものはないが、この頃から日本の政治に「忖度」の文化が垣間見えるのは気のせいだろうか。
文/栗下直也
写真/shutterstock