日本初の「アニソン」が生まれた
アメリカ版はセリフは英語になるが、絵はそのままでカットされない。著作権者として手塚と虫プロの名もクレジットされる。ただ全作品が自動的に放映されるのではなく、アメリカに向かないと判断されたものは、まるごと返される。また、放映順は日本と同じではない。
手塚治虫が調印のために渡米したのは1963年5月だった。初めての海外旅行である。手塚はディズニープロも訪問したが、ウォルト・ディズニーには会えなかった。契約は1本1万ドル、52本なので52万ドル――当時は1ドル360円の固定レートだから、1億8720万円、いまの10億円以上だ。
1本あたり360万円まるごと虫プロに入るわけではないにしろ、制作費が十分に賄える。「1本55万円で受注しても、海外へ売れば儲かる」という、手塚の夢みたいな話は半年で実現したのだ。アメリカでは『Astro Boy』として放映される。
手塚がアメリカに着くと、NBCフィルムズではすでに英語版を試験的に作っていた。手塚はそれを見て驚いた。オープニングの音楽にあわせて歌が付いていたのだ。前述のように『鉄腕アトム』は主題曲はあったが、歌はなかった。間に合わなかったとも言えるが、必要性を感じていなかったのだ。
手塚が帰国して虫プロで英語版を上映すると、社員たちからも主題歌を作ろうとの声が出た。手塚も同意見で、さっそく谷川俊太郎に作詞を依頼した。面識はなかったが、谷川の詩集『二十億光年の孤独』を読み、感銘を受けていたので、この人しかいないと直感したのだ。谷川は引き受けた。
日本初の「アニソン」が生まれた。前述のように、最初の主題歌付きオープニングがいつかは諸説あるが、7月30日放映の第31話からのようだ。
これまでのスタジオに隣接して、冷暖房完備の3階建ての第2スタジオも完成した。
8月に虫プロとフジテレビは『鉄腕アトム』に次ぐ第2のテレビアニメ・シリーズ『虫プロランド』の制作・放映で合意した。タイトルはウォルト・ディズニー・プロダクションのテレビ映画シリーズ『ディズニーランド』を真似したものだ。しかし『ディズニーランド』は実写の紀行映画だったが、『虫プロランド』はアニメーションだった。
手塚の構想では、自身の長編マンガをアニメ化して、60分枠で隔週、1年間、放映する。「隔週60分」は「毎週30分」と長さは同じだ。候補として『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『0マン』『魔神ガロン』『オズマ隊長』などが挙がっていた。原作の長さや物語のスケールが異なるので、作品ごとに回数は異なるようにするという構想だった。
アトムの制作班とは別に虫プロランド班も作られ、第1作は『新宝島』と決まった。脚本・演出は手塚治虫、作画監督には杉井ギサブローが就いた。