僕たちは「血も涙もない的確な現代人」
――『最愛の』というタイトルは、主人公がかつて文通していた相手の手紙の書き出しが、いつも「最愛の」だったというところから来ています。この「最愛の」の後が空白で、何が続くんだろう、なぜ空白なんだろう、と考えさせる。どこからこの発想が出てきたのでしょうか。
上田 「最愛の」の後の空白を追求する作品にしたいなというのは、最初からありました。「最愛の」と言われたら、続く言葉は何だろう。作中でも書きましたが、自分以外の人間を本当に愛せるのかという議論を思い浮かべながら書いていました。誰かを好きということは、自分にとって都合がいいから好きなのか、人間は自分以外を真に愛することができるのか、と考えながら。
今の若い人は恋愛に憧れを抱いているようにも重視しているようにも見えないし、実際、恋愛はコスパもタイパも悪い。そもそも恋愛感情は自分の中にしか存在しない勘違いなんじゃないか、という疑いがコアの部分にあると思っているんですよ。
情報化社会では、すべてがメタ視点になってしまうので、勘違いから生まれる恋愛感情が生き残りにくい。勘違いしたままでは生存できないというか、勘違いが簡単に砕かれてしまってなくなってしまうというか。恋の勘違いがなくなってしまった後に、「最愛の」だと思っていたもののその雰囲気だけがうっすらと残っているのが、今の社会の実相に見えたんです。だから逆に『最愛の』というタイトルをぽんと出したら、現代人に響くものがあるんじゃないだろうか、と。
高橋 さっきの紙の話の続きですが、『最愛の』は、物への手触りみたいなものを改めて考えるきっかけになりそうな気がします。手紙の紙の質感とかペンの握りとか、そういうものをもう一回思い出してみませんかという作品だと思うんです。それってすごく大事なこと。スマホやタブレットに比べたら非合理かもしれないけれど、手触りがあるからこそ思い出せる記憶がある。それに気づかせてくれる小説は大事だなと思います。
――主人公の久島と坂城(さかき)、四十近い男同士が、コワーキングスペースで何となく知り合う場面も印象的でした。ふと出会って交流し、いつしか自然に会わなくなる関係。こういう偶然の出会いがさりげなく描かれていることが新鮮でした。
上田 わざとらしくなく、だらっと知り合ったという感じが書きたかったんです。
高橋 すごく自然でした、あの出会い方。その後、仕事でたまたま再会してしまう奇妙さも。
上田 僕が一生さんのお宅にお邪魔した時、お酒もないまま八時間ぐらいしゃべりましたよね。コロナ前のことですけど。学生っぽかったですね、あの付き合い方は。
高橋 そうでした、僕はキッチンで御飯をつくりながら話をして。
上田 内容はもう覚えてないけど(笑)。
高橋 覚えてないですね。でも、ああいう時間が大事だと思います。
上田 そういえば、先ほどの合理性の話に少し戻りますが、『最愛の』で「血も涙もない的確な現代人」というワードを出しました。連載が始まる前の準備稿の段階から、自分も含めた現代人を指す、キャッチーな、どきっとする形容が一つ欲しいなと思っていて。考えに考えて、あの言葉がでてきた。そうあらねばならないという空気をふわっと感じていませんか、ということも読者に問いかけたかったので。
高橋 本当に僕たちは「血も涙もない的確な現代人」ですね。本人はそうなったつもりはないんです。でも誰だって、誰かにとっては血も涙もない的確な現代人だと思う。
なぜかというと、たぶんネットを通しているからなんですよ。コロナで対面する機会が減ったじゃないですか。ネットを通すことによってどんな人でも血も涙もなく見えてしまうんです。コンピューティングシステムを介在させることで。
たとえば仕事のキャンセルもそうです。面と向かって言われるのと、ネットを通して言われるのでは受け取り方が全然違う。対面で、「実はこういうことがあって、こういう流れでなくなってしまったんです」と話をされたらある程度納得できるけれど、「なくなりました」とだけオンラインで言われたら「へえ、あんたはそれでいいんだ」と僕は思ってしまいます。
上田 謝罪は取りあえず面と向かって、みたいな常識があるじゃないですか。でも、それすらもコロナで吹っ飛んじゃったというのはありますね。
高橋 Zoom会議でも、ネットの回線の遅れで止まってしまっている顔とか、やけに冷酷に見えるじゃないですか。顔の質感が感じられないなと思いながら話が進んでいく。会いに行く時間が必要ないから効率がいいと言われますが、意思の疎通が不十分になりがちな分、かえって効率が悪いような気がします。
上田 ああいうのは「タイパの神」みたいな感じがしますよね。タイパという本尊があって、それに与する場合、血も涙もない的確な現代人にならざるを得ない。
高橋 そう。ならざるを得ない。人に会いに行く時の緊張感とか、道路を踏みしめる感じとか、こういう街に住んでいるんだなと体感するとか。えらく寒かったなとか、そこで出されて飲んだ温かい飲物の味とか、そういうものはしっかりと脳に記録されると思うんです。
――『最愛の』の中で、古い家が出てきて、最初は家具を入れ替えてきれいにする予定だったけれど、そのままにしたというエピソードを思い出しました。
上田 何でも新しくきれいにしようとして、いろんなものを切っていった果てに何が残るんだろうかと思います。
高橋 陰謀論でも何でもなく、放っておくと僕たちはどんどん管理されていくんですよ。けれど一方で、能天気に「そんな心配ないよ」と言う人もいる。そういう人たちを見ていると、人間って考える力や繊細さを失っていくものなんだと不安になりますね。
上田 感じないことが幸せ、ということなのかもしれません。心配するだけで不幸になるような人もいますから。
お芝居への執着がなくなった
――お二人はまた一緒に演劇をやりたいというお気持ちはありますか。
高橋 上田さんがやりたいとおっしゃるなら。
上田 やりましょう。次は一人舞台ではなく、何人か出したいですね。
高橋 じゃあ、それで行きましょうか。でも、あの三人の感じ、僕、すごく好きだったんです。
上田 確かに。思いつくまま言いますけど、ゴリラの話とかを話し合いの中でポッと出せたのが、すごくよかったなと創作者として思っています。ああいうのを取っかかりとして、まだまだやれることがあると思いましたね。
――上田さんにお聞きしたいのですが、自分が書いた言葉を高橋さんが身体と声で演じてかたちにするということに対して、発見や刺激はありましたか。
上田 小説では一方的にこういう表現がしたいということを書いていて、読者がそれを読んでくれるのはうれしいのですが、演劇は一人でできるものではないじゃないですか。密なやり取りの中で最終的に固まっていく演劇は、文字で書かれただけの小説や戯曲の枠を超えた、別の営みのような気がしています。
一生さんが演じるのを見て、語尾を変えたほうがいいとか、ここでセリフはいらないとか。そういう議論ができることが、僕にとっては新しい創作の場でした。
高橋 自分で舞台に立ちたいとは思わないですか。
上田 全然思わないです(笑)。
高橋 そうですよね、あの稽古場で僕を見ていたらさすがに思わないでしょうね。僕もやりたくないですもん。
上田 一生さんは書いてみたいとは思いませんか。
高橋 思わないですね。自分が何かを発信しようという感覚がないかもしれません。脚本家のチームの中の一人として入るのであればやってみたいですけれど。チームとしてコラボレーションをしていくことには可能性があると思うので。
上田 おそらくこれからは演劇も映画もドラマも、そういうやり方も増えてくるんじゃないでしょうか。
高橋 そうですね。僕は『2020』で演じたGL(Genius lul-lul)という存在から、お芝居に関して相当影響を受けていると思います。上田さんが僕をイメージしてつくってくださった虚構の存在・GLがあり、次に僕が逆輸入的に舞台でGLになるという面白さみたいなものがあって、感動しながらやっていた記憶があります。
上田 僕からも聞きたいんですが、一生さんと前に対談したのは四、五年ぐらい前ですけど、あの時から、心境の変化というか、お仕事に対しての気持ちで変わった部分はありますか。
高橋 つい最近言語化できるようになったのは、たぶん僕自身は、今までお芝居に関して強い執着があったと思うんですが、それがなくなったということです。
お芝居をやりたいのは変わらないんです。熱量はある。でも、お芝居で自己実現しようという欲がなくなってしまいました。あれは執着だったんだ、と思えるようになってきたかもしれない。それはここ最近の発見でした。
上田 執着の発生源は何ですか。
高橋 こういう役がやりたい、こういう作品に出たいという欲ですね。執着がなくなると、作品に対する思いだけでモチベーションを維持できるようになったんです。「作品のためにならないから、こうしたほうがいいですよ」とはっきり言えるようになってきた。より純粋に明確に言えるようになってきたのは、執着がなくなってきたからかもしれないです。
上田 それは大きな変化ですね。
『最愛の』を演じる自分が想像できる
高橋 上田さんは何か心境の変化がありましたか。
上田 作家になって十年間、『キュー』までは自分が書きたいものが第一優先だったんです。読者が分からないと思っても構わない。こういうものを書きたい、こういう作品が世界にあってほしいというモチベーションで書いてきました。でも、十年たって、これはきちんと読者に分かってほしいというモチベーションが生まれてきました。
それもあって、『最愛の』に関してはあまり文学を読んできていない人、基本的にはエンタメ小説は読むという人、あるいは中学生、高校生ぐらいでも読んでもらえるように工夫したいと思ってました。作家として十年間でつちかったものをもとに、なるべく広く読んでもらえる小説を書いてみたいなと初めて思ったんです。
高橋 僕と上田さんとは逆ルートを通っていますね。上田さんは読んでくれる人のことも考えて書きたいとおっしゃっていますけれど、僕はその逆で、より文学的に、自分の好きな方向に行き始めているのかもしれません。
――主人公の久島に自分を投影しながらお読みになったとおっしゃっていましたが、俳優として演じてみたいですか。
高橋 やってみたいと思わなかったら、自分を投影して読めないですね。小説を読み始めて、「これ、違う」と思った瞬間に距離を持って読んでしまいます。そういう癖がついているんです。
台本を読む時も、最初に読んだ時点で、何か自分の中の近いものに触れたり、腑に落ちたりした時は一気に没入できるんですけれど、それがない場合は、そういうものとして読むしかなくて。それもほとんどファースト・インプレッションのままで最後まで変わらない。もうちょっと役柄に歩み寄ってみよう、というのは無理なんです。
ただ、『最愛の』を含めて、上田さんの書かれる本は大体自分ごとだと思って読んでいます。『最愛の』でいえばコワーキングスペースにいる自分が自然に想像できますね。
――久島がとある人物に会いに行く『最愛の』のラストシーンは、ハッピーエンドだと思われましたか。
高橋 いつどこでどんな状況で読んだかで解釈が変わるような気がします。それも含めて終わり方としてはすばらしかったと思います。それは読者にゆだねることができているという意味で。
上田 最後の部分は何度も書き直しました。一番大変でしたね。会えたほうがいいのか悪いのかもよく分からなくて、いろいろやってみて、結果、これだな、と思えるラストシーンになりました。
高橋 久島と彼女が同じ世界線に存在するのかすらも曖昧にしていくのは、ある種究極の答えなんじゃないかなと思いました。とてもすてきだったと思います。
やっぱり「想像」なんです。自分が会うまでの間で想像しているものが膨れ上がっていると、会えたとしても、実は会えていなかったりするものじゃないですか。逆もまたその通りで。物事をすごく大事にしている終わり方だなと思いました。事象すべてを大事にしていないと、あの終わり方はできないなと。
――高橋さんは、上田さんのこんな作品をお読みになりたいというリクエストがありますか。
高橋 いや、もう上田さんの好きなように書いていただきたいですね。僕が望むことなんて大したことはなくて、自分の想像外からやってくるもののほうが自分が必要なものだったりするので。
上田さんとは年代も近いですし、感性としても近しい部分が多々あると思うので、上田さんが思うがままに書き連ねていってほしい。それは、『最愛の』の読了後にも思いました。上田さん、このまま書いていってください。僕に言えるのはそれだけです。
(2023.10.2 神保町にて)
「すばる」2023年12月号転載