官邸を支える2人の番頭

「やりたいことよりやるべきこと」。それが岸田の統治の手法とするならば、岸田にとっての「やるべきこと」とは、どのように決まっているのか。

岸田官邸の1年半を振り返ると、数ある政策課題の取捨選択には、2人のキーパーソンの存在が浮かび上がる。

ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本対メキシコ戦のテレビ中継に多くの人が釘付けになっていた2023年3月21日午前、岸田はウクライナで列車に揺られていた。

前夜、外遊先のインドのホテルを裏口からひそかに抜け出し、ポーランドを経て、陸路でキーウをめざしていた。ホテルに取り残された首相秘書官は、岸田が出発した後に計画を知らされたという。

「岸田総理がウクライナを電撃訪問」のニュース速報が流れたのは、ちょうど九回、無死二塁で日本代表の村上宗隆に打順が回ってきたときだった。

電波で居場所を知られないよう、携帯電話の電源を切り、外部からの電波も遮断。通訳などの外務省関係者や警護のSPも絞り込み、随行者は10人足らず。穀倉地帯を走る列車の中に、岸田と深夜までゼレンスキー大統領との会談の打ち合わせをしていた2人の側近の姿があった。

首席首相秘書官の嶋田隆と官房副長官の木原誠二。

政権の機微に触れる重要な政策決定には、必ずこの2人が関わる。2023年2月に発表されるまで、保秘が徹底された日本銀行総裁の後任人事。2人は数カ月前から、水面下で候補者のリストアップを進めてきた。

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経産省へ直接指示 まるで「嶋田資源エネルギー庁長官」

嶋田は岸田と同じ開成高校の2年後輩。東大卒で通商産業省(現・経済産業省)に入り、事務方トップの事務次官も務めた。

官房長官や財務相を歴任した故与謝野馨の信頼が厚く、閣僚になるたびに秘書官として起用された。東京電力福島第一原発事故の後は、原子力損害賠償支援機構の理事や、東電取締役に就き、東電の経営再建を主導した。

嶋田の職場は、岸田や官房長官の執務室が並ぶ首相官邸の最上階、5階にある。秘書官室にはコの字形に机が配置され、左右に居並ぶ秘書官全員が見渡せる中央に嶋田が座る。

嶋田の背中の向こうには、扉を挟んで岸田の執務室がある。岸田へのあらゆる報告はすべて嶋田がチェックし、岸田の指示は嶋田が差配した。

嶋田は思い入れの強いエネルギー政策には自ら首を突っ込む面もある。

退官後、富士フイルムホールディングスの社外取締役などを務めていたが、2021年9月の自民党総裁選の結果が出る数日前、岸田から「もし勝ったら、やってほしい」と誘われた。

岸田の長男、翔太郎と同じ「政務秘書官」として、各省庁のエース級が集まる秘書官を束ね、岸田に最も近い場所で執務に臨む。

物価高騰を受けた電気料金の値上げ抑制策や、原発の建て替え(リプレース)を含む政策転換をめぐっては連日、経産省に直接指示を出し、書類も自ら書いた。

その細やかな働きぶりをある事務秘書官はこう表現した。

「『嶋田資源エネルギー庁長官』、いや『嶋田課長』といってもいいぐらいだ」

だが、政策全般では、嶋田が率いる官邸スタッフによる省庁への「介入」は抑制的と言える。岸田政権が「適度な政治主導と適度な行政の推進」(首相周辺)を重視しているからだ。

経産省の同期で第2次安倍政権では首席首相秘書官を務めた今井尚哉は重要政策を自ら主導していた。対する嶋田は政策の実務を粛々と進めるタイプだ。

第2次安倍政権では、官房長官の菅義偉が「内政は全部、俺に任せてくれている」と周囲に語る一方、あらゆる政策に口を挟み、「反対するなら異動してもらう」とも公言。官邸主導で政策が進む一方、「官邸に箸の上げ下ろしまで指図される」(経済官庁幹部)と官僚の萎縮を招いた。

岸田政権では、岸田の意を受けた官邸が重要な判断や方向性は示すが、官僚の専門性に委ねる。ある省庁の幹部は「首相は決められないと言われるが、それだけ意見が上がっているということだ」と話す。

嶋田自身、官邸と現場の省庁がそれぞれの役割を発揮したケースを経験している。史上初めて震度7を連続記録した16年4月の熊本地震の時だ。

当時、経産省ナンバー3の官房長だった嶋田は官邸の命を受けて現地で省庁幹部が集う会議の事務局長を務め、生活インフラの復旧から被災者の健康管理まで、省庁をまたぐ対応を担った。

災害の初動対応がスムーズに進んだ好例として、霞が関では熊本の頭文字と幹部の人数を取って「K9」と呼ばれる。