アラビア語の地名をヘブライ語に置き換えても定着せず
争いは地名の変遷にも表れる(ヘブライ語の地名がアラビア語の地名に取って代わるのだが、そもそもアラビア語の地名が聖書中のヘブライ語の名前を想起させる)が、相手の存在を抹消しようとする双方の試みがいつも成功するとはかぎらない。
1950年代には、西エルサレムに残存するアラビア語の地区名をヘブライ語に変える大規模な計画が実施された。
それをシオニズム運動の重要な事業と見る当局者もいたが、この都市の実際の歴史への冒瀆だという見方もあった。
結局、各地区にヘブライ語の名称がつけられたものの、その名称は定着しなかった。
私が一時期住んでいたエルサレムのユダヤ人地区には、1950年代にモラシャという立派なヘブライ語の名前が付けられていた。ただし、誰もその名で呼ばなかった。誰もが依然としてアラビア語の旧名「ムスララ」と呼んでいた。
19世紀後半にその地区が建設されたとき、基礎を築いたアラブ系キリスト教徒がその名をつけたが、数十年後の1948年、独立戦争/ナクバの最中に、彼らの子孫はグリーン・ラインの東側の地区への避難を余儀なくされた。
それでも、記憶、歴史、地理をめぐる闘いは続く。
2011年には右派のクネセト議員二人が、エルサレム当局にヘブライ語の地区名の使用を義務づける法案を提出した。法案は否決されたものの、エルサレムの地名をめぐる長い戦争がこれで終わるとは思えない。
言語や、歴史や、その土地における「相手方」の存在や土地との関係の現実を消し去ろうとするこうした試みは、成功したためしがない。
また、歴史を変えようとする試みも、(しばしば疑問符のつく)考古学や地図製作や地名の命名(と改称)に基づいて歴史的優位性を主張する試みも、成功したためしがない。
ユダヤ人とパレスチナ人がこの土地に感じるつながりはあまりに深いがゆえに、消えることはけっしてない。
結局のところ、ユダヤ人は何千年ものあいだ、異国で暮らしながら祖先が失った土地への帰還を祈り続け、パレスチナ人は前世紀の大半を、先祖が逃げたり追い出されたりした家の鍵を比喩的に、ときには文字どおり持ち続けて過ごしてきたのだ。
煎じつめれば、ダビデ王が本当にシルワンに王宮を建てたのか、あるいはパレスチナ人がペリシテ人の子孫なのかは、あまり重要ではない。
事実は、歴史や神話や信仰や実体験によって築かれた強い絆が、ユダヤ人やパレスチナ人と、両者が領有権を主張する土地のあいだにあるということだ。
それを否定する証拠を探すのは、はた迷惑だし骨折り損である。自分はいい気分になるかもしれないが、相手が感じていることを感じなくさせることはできない。
それならば、双方が感じている深いつながりを認め合うことこそ、紛争の解決法を探る第一歩として有効かもしれない―少なくとも、シャピロ元大使の言うように「いまでも解決の望みを持つ者にとっては」。
文/ダニエル・ソカッチ 翻訳/鬼澤 忍 写真/shutterstock
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