今でも忘れられない「病室を出た息子の顔つきがまるで変わっていた」
父親は地元では誰もが名前を知る有名企業の社員だったが、平日の昼間に動ける夜勤明けを利用して、妻と2人で考えられる限りの場所に足を運んだという。
「そんな日々が2、3も続いたでしょうか。どこも話はよく聞いてくれるんです。でも具体的にどうしたらいいかは誰も教えてくれませんでした」
ある行政の窓口では、精神科を受診させた方がよいと勧められた。息子を精神科のクリニックに連れていくと、いきなりうつ病の薬を処方された。それでも状況は変わらないままで、診療所もいくつか回ったという。
最後にたどりついた病院では「息子さんは不安が強い」と言われ、医師が息子に鎮静剤と思われる注射を打った。そのとき、病室を出た息子の顔つきがまるで変わっていたのをいまも忘れないという。目はうつろで、口元も半開き。それから息子はこの病院で受診するたびに夜中に荒れるようになった。
ドンドンドン。深夜に壁をたたく音と、「あーーっ」という大声。やっと収まった、と思うとまた繰り返される。男性と妻はふとんの中でいつも、「近所にもこの声は響いているだろう。一体どうすれば……」と眠れない思いでいたという。
息子の様子が気になり、男性は仕事に出ているときも、職場から家に頻繁に電話を入れた。妻も疲れ切っていた。
「当時は民間の自立支援業者なんてない時代でしたが、それしか手がないと考えてしまう親の気持ちは分かります」
引き出し屋によるトラブルが相次いでいることについて話を向けると、男性はそんな感想を口にした。
本当に出口のみえない苦しい毎日だったのだ。
息子のことで悩み、もがき続けながら、やがて男性は会社を定年で退職した。息子は30代半ばを過ぎていたが、ちょうどそのころから少しずつ回復をみせたという。
理由は定かではないが、男性が毎日台所に立ち、うつ病などに良いと本で紹介されていた魚中心のメニューを息子に食べさせるようになっていた。
「食事も理由ではないかと思うんです。それ以外に思い当たらない」と男性は言う。
会社を定年したことで男性も肩の力が抜け、息子との接し方が変わっていったのかも知れない。やがて息子はパートタイムで仕事にも出かけられるようになった。
そして夫婦が80代半ばとなったいま、息子が近くにいて、同居してくれているのはそれだけでも頼もしい、と男性は言う。
「買い物から何から息子が助けてくれています。でも、学歴も職歴もない彼が本格的に社会に出て行くのは難しいかもしれない。妻とは、せめて少しでも多く息子にお金を残したいと話しています」
文/高橋淳 写真/shutterstock
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