大坂夏の陣

四月三日、家康は、九男義直の婚儀を理由として、翌日名古屋に向かうことを発表した。

だが真の目的は、再び大坂城を攻めることにあった(『駿府記』)。四月五日、大野治長の使者が駿府を訪れ、秀頼国替えを免除していただきたいと嘆願したが、家康はとりあわなかった(『駿府記』)。

四月六日、家康は伊勢・美濃・尾張・三河などの諸大名に伏見・鳥羽方面に集結するよう命じた(『駿府記』)。家康は十日には名古屋城に入った。秀忠も十日に江戸を発している。

織田有楽斎も豊臣家を見限り、大坂城を出て、十三日に家康に対面、大坂方の軍備を報告した(『駿府記』)。家康は十五日に名古屋を出発し、十八日に二条城に入った(『駿府記』)。二十一日には秀忠が伏見城に入り、翌日には二条城に赴き、家康に対面している(『駿府記』)。二十五日には大坂攻めに参陣する大名が集結し、戦争準備は整った(『駿府記』)。

家康は五月五日に二条城を出陣した。家康は総勢十五万五千を自身と秀忠の二隊に分けて進軍した。二の丸、三の丸を破却され、本丸を残すのみとなった大坂城に籠城することは不可能であるから、大坂方五万五千は城外に打って出るしかなかった。

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勝負の帰趨は戦う前から明らかだったが、大坂方は決死の抵抗を見せた。五月六日の道明寺の戦いでは牢人衆の後藤又兵衛・薄田隼人(兼相)が、若江の戦いでは豊臣譜代の木村重成が戦死した。

翌七日には大坂城の南の天王寺口(家康が布陣)や岡山口(秀忠が布陣)などで最後の戦いが行われた。決戦の火ぶたが切られたのは正午頃、家康が総指揮をとる天王寺口においてであった。

関東方の本多忠朝隊(徳川四天王の本多忠勝の次男)が大坂方の毛利勝永隊に発砲したのである。毛利隊は本多隊を撃破し、忠朝を討ち取った。勢いに乗った毛利隊は次々と東軍諸隊を破り、家康本陣に迫った。

茶臼山に陣取り戦況を見守っていた真田幸村は、毛利隊の攻勢を好機と捉え、麾き下かの軍勢三五〇〇に総攻撃を命じた。対峙していた関東方の松平忠直隊は一万五〇〇〇の大軍だったが、真田隊の猛攻を受けて陣形を崩された。

この間隙をぬって、幸村は三度にわたって家康の本陣に突撃を敢行した。その戦いぶりは、敵である島津家久から「真田日本一の兵」と称賛されるほどであった(『薩藩旧記雑録』)。家康本陣は、一時は家康の馬印が倒されるほどの混乱をきたしたが、なんとか持ちこたえ、真田隊を撃退した。幸村は退却し、安居神社で休んでいるところを松平忠直の家臣に討ち取られた(『大坂御陣覚書』)。

岡山口でも秀忠の指揮する関東方と、大野治房(治長の弟)が率いる大坂方の諸隊との間で激しい攻防が繰り広げられた。死を覚悟した大坂方の攻撃は苛烈で、将軍秀忠が陣頭指揮をとって士気を鼓舞するほどであった(『駿府記』)。

このように大坂方は奮戦した。だが時間の経過と共に、天王寺口・岡山口の両方面とも、兵力に劣る大坂方が次第に守勢に回り、名だたる武将を次々と失っていった。寄せ手の関東方は、撤退する敗残兵を追って大坂城中に突入した。

大坂城内に火の手があがり、豊臣秀頼や淀殿は山里曲輪に逃れた(『三河物語』『駿府記』)。落城が決定的になると、大野治長は秀頼の正室である千姫(家康の孫娘)を城外に脱出させ、徳川家康に秀頼と淀殿の助命を乞うた。家康は助命を認めたが、秀忠が反対したため、沙汰止みとなった(『駿府記』『萩藩閥閲録遺漏』)。翌八日、秀頼・淀殿は自害した。時に秀頼は二三歳であった。

文/呉座勇一

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2023/9/13
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232ページ
ISBN:978-4022952349
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