キリスト教に入信し、自害した理由を再解釈

―― そうした苦悩の中で、玉はキリスト教に入信します。

 玉の入信をどう描くかはすごく悩みました。最初は、キリスト教の教義をつらつら書いて、だから入信するのだと説得するような書き方になってしまって。でも、説得ではなく、共感できるように書かないと玉が生きた玉にならない。歴史上の「細川ガラシャ」のままになってしまう。それで、彼女の内面の変化にとことん目を向けていきました。
 玉は、自分が求めているのは忠興の独りよがりな愛じゃなく、父・光秀が与えてくれた愛、つまり全てを受け入れてくれる愛だと気づいた。やっぱりそれが、入信の一番の動機だったのではないかと。だから、もし光秀の思いともつながるものをキリスト教の中に見つけられたなら、玉の気持ちはきっと固まるだろうと思ったんです。

―― 人の優しさや光秀の思いの象徴として、本書では「水色桔梗」の青、そして日の沈む刹那に現れる深い青が「優しい色」として描かれています。ここも、とても素敵な演出ですね。

 ありがとうございます。明智家の家紋の水色桔梗、青い桔梗の色から着想を得て、玉にとっての青って何だろうと考えていくうちに、父親が教えてくれた優しさや愛の象徴がそれなのだとわかってきたんです。
 そのうえで、水色桔梗の青色を読者にも伝わるように、空の青と重ね合わせて書きました。でも、いわゆる空の青、晴れた青空だとイメージが違う。いろいろ考えていたときに、私、夕空の青い色が好きだったなと思い出しまして。以前、仕事で大失敗をして帰った日の電車から見た、夜が来る前の空の青色がすごくきれいで、失敗なんて全て許してくれるような色だったんですよ。それで、夕空の色とかけた優しい青色のモチーフを入れていきました。

―― ガラシャとなった玉は物語の終盤、史実でも有名な壮絶な死を迎えます。関ヶ原の戦いの中、忠興の妻であった彼女は敵方から人質に取られることがあれば自害するよう、忠興から言われていた。一方、キリシタンであった彼女にとって自害は罪。進退窮まり悩む彼女に、宣教師オルガンティーノが救いの解釈を伝え、最終的には家臣の介錯によって自害を選びます。本書ではこの場面も、従来の見方とは異なる、より胸に迫るラストになっていました。

 ここも、とても難しくて。従来のガラシャ像ですと、キリスト教の教義や夫の言いつけを守って死を選ぶ彼女は敬虔で美しい、というものかと思いますが、それだと現代の読者には共感してもらえないだろうと思いました。それで、教義や夫の命令だからではなく、自分はどうしたいのかを彼女自身に考えてほしかった。もちろん、史実は変えられないので、史実のモチーフや言葉を用いつつ、私なりにその解釈を変えてみようと。それで、あのようなラストになりました。私は本当はこれが書きたかったんだな、というのが、書いていくうちに出てきた感じでした。

忠興と玉の愛、キリスト教の愛――愛って何?

―― 本書では、忠興とガラシャのほかにも魅力的な人物が多数登場しますね。誰か、思い入れのある人物はいますか。

 忠興と玉の娘・長ですかね。彼女は、玉が本能寺の変を機に味土野に幽閉されてしまった間も、ずっと忠興のそばにいた子どもで、父親としての忠興が大好きなんです。長にとっての父親は忠興、玉にとっての父親は光秀で、そこは同じ関係なわけです。忠興と光秀は男性像としては真逆ですが、私は、玉が光秀を好きなように、長も忠興が好きだったはずだと思いながら書いていました。だから、玉が長にキリスト教の入信を勧めても、父親が望んでいないならと断ることができる。娘から愛される父親という観点で見ると、忠興と光秀にも意外に共通点があるんです。
 後半、長を助けるために忠興が命を懸ける場面もありますが、父と娘の愛があるからこそ、玉に対しても、歪んだ愛なりにきちんと愛そうとする忠興になっていく。そういう意味で長は、忠興を変えていくキーパーソンなんだと思いますね。

―― 確かに、父親としての忠興はまた別の顔があり、魅力や深みが増していると感じました。

 それは、私が忠興を大好きになった結果かと(笑)。不器用なところ、弱いところ、それをうまく表現できないところ。そのもどかしさゆえに出てしまう暴力が哀れで。暴力は許されませんが、忠興の抱える哀しみは書けば書くほど愛おしくなってしまいました。
 実は、本書を書いているさなかに、私、離婚をしたんです。だから本書には、自分が離婚に向かうときの気持ちや、いざ離婚となったあとの苦しみや罪悪感も反映されていますね。愛って何だろう、これも愛なのか、と悩みながら書いていました。
 特に、ラストシーンでは忠興と玉の愛の到達点を表現したかったので、本当に悩みました。私自身の結婚は破綻してしまったからこそ、作中の彼らは破綻させたくないなと思ったり。いろいろ葛藤しながら書いていたら、無意識に歯を食いしばっていたみたいで、歯並びが変わっちゃったんですよ。それで、前歯を亜脱臼するという大事件が。

―― ええっ、それは壮絶な……。これも愛なのか、というのは確かにかなり重いテーマですよね。

 愛って一言で言うけど、いろんな愛があって。もちろん逃げていいものもあるし、受け止めないといけないものもある。応えられる愛と応えられない愛がある、だからこそ人を愛するってどういうことなんだろう、と。

―― やはり、そうした愛と、ガラシャが求めたキリスト教の愛というのは対極にある印象ですね。

 そうですね。これは本当に全く違っていて、私自身がキリスト教徒ではないので、キリスト教の勉強をしっかりしないと書けないなと思い、教会にも取材に行かせてもらいました。カトリック教会のミサに初めて参加したんですが、皆さんとても優しくて、教会の中全体が目に見えない愛に包まれているような雰囲気でした。初めての人も、家族のように受け入れてくださるのが新鮮で。これがキリスト教でいう愛なのかというのは、教会に行ったからこそ得られた感覚で、それにより書けたシーンも多いですね。
 また、神父さんにお話を伺い、キリスト教の愛とはどんなものなのか、なぜ自殺や離婚を禁じてきたのかなど、聖書の内容をふまえて具体的に教えていただきました。