江戸時代から続くホームレスとギャンブルの関係
実は、ホームレスとギャンブルの関係はすでに江戸時代から続いていた。
江戸時代の後半に記された随筆で、前者の『後見草』(天明七〈一七八七〉年頃板)によれば、大道で猥褻な絵を公然と販売し、千住や浅草ではさいころ賭博の丁半やちょぼ一の店が一里(約三・七五キロメートル)も続いていたという。また、吉原などの廓の近くでは、お花独楽という独楽賭博や役者の紋を描いた台紙を賭紙にする賭博がおこなわれ、夜間も灯火の下で人々が賭博に群がり、人品賤しからぬ者たちも多勢集まっていたという。
後者はその少し前に出板された『北里劇場隣の疝気』(宝暦一三〈一七六三〉年板)で、もうこの頃から独楽賭博は盛んで、賭博で渡世する者も少なくないという。賽賭博やかるた賭博も流行していて、賭博の方法を知らない者は「野暮」とよばれて馬鹿にされた、と述べている。(増川宏一『賭博の日本史』平凡社)
ささやかな金額や身の回りの品物を賭けて、大小のギャンブルが行われていた賭場に集まる者には、農民だけでなく、下級武士も混じるようになり、江戸時代中期には全国にたくさんの賭場が出現したという。
当時の主要産業といえば、言うまでもなく農業である。作物の生産力がピークアウトし、封建制度の矛盾や相次いだ天災などが理由となって、農村から離脱したり、無宿になったりする者が増加した。江戸時代は、ちょっと奮発すれば庶民も楽しめる歌舞伎や浄瑠璃、寄席、相撲などの娯楽はあったが、生活困窮者の農民や無宿者には高嶺の花だったに違いない。
基本、人生が退屈なものなのは、今も昔も変わらないのだろう。それでも、スマホやパソコンがあれば、あっという間に時間が飛んでいってしまう現代とは違い、かつての人々にとっては、平均寿命の短かった人生でさえ、長く感じたのかもしれない。
当時の賭博が人を吸引する力は、かなりのものだっただろうし、今日明日の食事や寝床を得ようと、もしくは人生の一発逆転があると信じて、無宿者がサイコロの出目にわずかな有り金を託していたのだろう。