2度の落選と3度目の挑戦
スタ誕は予選会を勝ち抜き、テレビ収録がある本選に合格した者だけが、レコード会社や芸能プロダクションのスカウトが集まる決戦大会に臨むことができた。
そこに審査員兼ピアノ伴奏として参加していたのが大本である。予選では5人が前に並んで、順番に1人ずつマイクの前に進み、大本やアコーディオン奏者の横森良造らの伴奏に合わせて唄う。ワンコーラスを唄い終わらないうちにブザーが鳴って、次の挑戦者と入れ替わる。そのわずかな時間にいかに自分をアピールするか。審査員は、その様子を細かくチェックしながら、その子に光るものがあるか否かを判断していく。大本は審査が進むなか、見覚えのある少女に目を留めた。それが明菜だった。
「彼女はそれまで本選で2度落選していました。審査員だった声楽家の松田トシさんが彼女を嫌って、厳しい点数をつけていたという話は聞いていました。ただ、僕は明菜をいいと思った。自分で自分をアピールする、ある種のナルシズムを持っている子だった。彼女の鼻にかかった声は上顎部にあたる艶っぽい声で、単に鼻に抜けた声とは違い、憂いがありました」
明菜は79年の1度目の本選で、岩崎宏美の「夏に抱かれて」を唄い、審査員の松田から「中2ですよね?年のわりには大人すぎて、若々しさに欠けますね」と酷評されていた。翌年、今度は松田聖子の「青い珊瑚礁」で挑んだが、審査員席の松田は、またしても辛辣だった。
「あなた、歌は上手いけど顔が子供っぽいから無理ね。童謡でも唄っていた方がいいんじゃない?」
これに明菜は壇上から猛然と噛みついた。
「童謡を唄えとおっしゃいますが、スタ誕では童謡を受け付けてくれないんじゃないですか?」
当時、中学3年生の明菜と藍綬褒章(らんじゅほうしょう)も受章したベテラン審査員との激しいやり取りに、会場は騒然となった。客席にいた母親が「明菜、止めなさい!」と一喝し、辛うじて事態は収束したが、それでも彼女は懲りなかった。
中学を卒業した明菜は81年に私立大東学園高校に入学し、7月に予選会の通知を受け取って、3度目の挑戦に臨んだ。
坂本九が驚いた最高得点
当時の心境を明菜は、自著『本気だよ 菜の詩─17歳』(小学館刊、1983年)でこう述べている。
〈『スタ誕』に3回も挑戦した女の子は私が初めてなんだって。男の人では新沼謙治さんが5回挑戦したそうだけど……。
あの番組は全国放送でしょ。落ちるとみんなにバレちゃうから、ふつうは2回めくらいであきらめるんだって。私って度胸がいいのかなぁ。っていうより「いつか受かるよ、いつか歌手になれるよ」って信じて疑わなかったから、落ちても恥ずかしい、なんて気持ちはなかったんです。学校に行って友だちにいわれても、べつに平気だったし……〉
そして迎えた本選で、彼女は山口百恵の「夢先案内人」を唄い、スタ誕史上、最高得点を獲得して合格する。なかでも審査員の一人だった作曲家の中村泰士は、電光掲示板に表示可能な範囲では最高得点となる99点をつけた。
司会の坂本九が、興奮気味に「99点というのは、この形式になってから初めてで。ちょっと、すいませんけど、中村さん、これ、99点っていうのは」と話を振ると、中村は「本当は100点を入れたんです。素晴らしいと思う。15歳でリズムの揺れと気持ちの揺れを会得したということは凄く楽しみだと思う。頑張って下さい」と讃えた。
泣きじゃくる明菜は、坂本に肩を抱かれながら、「どうもありがとうございます」と消え入るような声で応じるのが精一杯だった。
そして、芸能プロやレコード会社のスカウトマンを集めたお披露目の下見会(各プロダクションの下見用に開かれた大会)を経て、11月18日(放送は12月6日)の決戦大会では、再び「夢先案内人」を唄った明菜に11社のスカウトからプラカードが上がり、彼女は歌手デビューへの切符を手にした。番組の最後に司会の坂本は「上を向いて歩こう」を唄い、「中森明菜ちゃん、本当におめでとう」と声を掛けた後、こうエールを贈った。
「君がデビューしてスターになって、この番組に帰ってくることを我々みんな待っているし、みんなで応援しているから頑張ってやって下さい」
文/西﨑伸彦
写真/『週刊明星』昭和59年3月8日発行号より 撮影/亀井重郎
『週刊明星』昭和59年12月6日号より 撮影/篠原伸佳