豪華な寺院を建てたわけ
佛光山を開いた星雲は1927年、中国江蘇省揚州市生まれの中国人である。父親は1937年に南京に行商に出たきり行方不明(日本軍の侵攻に巻き込まれた可能性が高い)、やがて母とともに父を探すために南京に出た際に出家し、そのまま成長して中国臨済宗の法灯を継承した。だが、戦後に国共内戦が激化。中国共産党の支配を嫌った星雲は1949年に台湾に脱出した。
当時の台湾は中華世界全体から見れば辺境(かつ日本の50年間の植民地統治の影響を受けた土地)で、中国仏教の信者は少なかったが、星雲は日曜学校を開いたり、仏教雑誌を発行したりして熱心に布教を続ける。
やがて信者が増えていき、星雲は1967年に高雄市に佛光山寺を建てて、佛光山教団の礎を築いた。教義面以外での佛光山の特徴は、娯楽色の強い華美な寺院を建設しがちであることと、多角経営によってそれを可能とするだけの膨大な資金力を持つこと、そして宗祖である星雲個人を賛美する傾向が強いことだった。
「政治和尚」と呼ばれた開祖
佛光山は伝統仏教の範囲内にある教団だが、信者がほぼゼロの状態から戦後に急成長した点や、一般市民の一部からときに「引いた」イメージで見られる場合もある点は(もちろん「仏教版ディズニーランド」を楽しむ一般の台湾人もかなり多いが)、ちょっと新宗教的な匂いも持つ。
熱心な国際進出、多角経営方針やメディアの重視、カリスマ的な代表者に対する崇拝傾向などは、日本の創価学会と似た部分もある。余談ながら、星雲と池田大作とは1歳違いでほぼ同世代でもあった(ただし、両者に直接の面識はないか、すくなくとも交流を大きく宣伝するような関係ではなかったらしい)。
さらに別の共通点もある。たとえば「政治」を好む点だ。佛光山は創価学会のように自前の政党こそ組織していないものの、開祖の星雲本人が1949年に中国国民党に加入。これは政治迫害を避けるための入党だったと説明されているが、台湾の主要な宗教者で国民党籍を持つのは星雲だけだとされる。
1998年には当時の副総統だった連戦から「吾党之光」(わが党の光)の文句が書かれた額を贈られているほか、国民党の党務顧問などいくつかの役職についている。いっぽう、佛光山がある高雄市の歴代市長は、国民党か民進党かを問わず星雲への挨拶を欠かしておらず、星雲の側も民進党とも一定の関係を持っていた。生前の星雲は、台湾では「政治和尚」のふたつ名で有名であった。