在野の才能をつれてくる
さて、話を1980年代に戻すと、そんな福島さんが創業したエニックスは、様々なビジネスにチャレンジするなかで「これから流行っていきそうなパソコンゲーム市場に参入しよう」と考えました。
しかし当然ながら、社内にゲームソフトを開発できるような人員がいるわけではありません。そこで賞金総額300万円を元手に、自作ゲームのコンテストを開催して、外部から若いクリエイターというか、当時の感覚でいえば素人のパソコンマニアである「マイコン少年」たちを募り、彼らの制作したゲームをライセンス販売することでゲーム事業をスタートしました。これが1982年にスタートした「ゲーム・ホビープログラムコンテスト」です。
ゲームを作るのに必要な才能は、在野にある。だからそれを探し出し、連れてくる。これは新規事業をクイックスタートする手法として非常に合理的だったと思いますが、同時に、後々までつながるエニックスの開発スタイルの基本となる考え方でもありました。実はエニックスはスクウェアと合併するまでは一貫して、社内に開発人員は置かず、すべてのゲームを社外チームで開発していました。
したがって、その外注開発をハンドリングするためのプロデューサーがプロジェクトの数だけ必要となるわけですが、逆にいえばエニックス社内で直接ゲーム開発に関わっているのはそのプロデューサー陣だけということになります。僕が入社した2000年ごろでも、その人数はアシスタントプロデューサーを含め20人から30人程度しかおらず、営業、宣伝、経理、総務、品質管理など他部署の社員の方が圧倒的に多いという人員バランスでした。このプロデューサー陣と社外チームによる開発体制は、社外チームがいわば「作家」であり、エニックス社内のプロデューサーは「編集者」のような役割と考えると、わかりやすいかもしれません。
つまりエニックスは、もともと企画会社である(=社員は企画者&ビジネスマンであってク
リエイターではない)という社風から、「ゲームの出版社」のようなビジネススタイルを生み出したわけです。このスタイルはゲーム業界の常識からすれば、異例中の異例です。