大きな政治システムの変化。
人々はそれをどう捉えるのか?
政治不信が言われるようになって久しい。長く政権の座にある与党に対して批判の声はあがるものの、大きく制度が変わる気配はない。選挙の投票率は低く、国民の政治への関心は低い。それでいいのだろうか? 堂場瞬一さんの新刊『デモクラシー』は、そんな私たちの政治意識に向けて放たれた一撃だ。国会が廃止され、国民から抽選で選ばれた千人が代議員を務める国民議会が招集される。任期は四年。オンライン会議を駆使し、官僚のサポートのもとで政治のアマチュアが国を動かす。この制度はどう国を変えるのか。
『デモクラシー』は、国民議員に選ばれた大学生、国民議員をサポートする官僚、旧体制の復活を目論む大物政治家、女性初の首相を狙う都知事、新体制での第二代首相など、この制度に関わる多様な立場、人々の多視点でこの新しい世界が描かれる。
テーマは政治体制というシステムの変更そのもの。これまで『解』(集英社文庫)で平成の政治を、『宴の前』(集英社文庫)で地方の知事選挙を題材に骨太なエンターテインメント小説を書いてきた堂場さんが、大胆な政治体制の変革を描いたのはなぜなのか。お話をうかがった。
聞き手・構成=タカザワケンジ/撮影=chihiro.
いまある議論の枠組みを超えた設定
―― 『デモクラシー』はランダムに選ばれた千人で構成される国民議会が国政を動かしているという設定です。この発想はどこから生まれたのでしょうか。
こういう制度で政治ができるんじゃないの? と思った。それだけです。いまのこの国は、政治の質の低下が言われているにもかかわらず対策が打たれていない。そもそも対策する気もないような状況です。だったらもうランダムに任された人たちにやらせればいいじゃないか、と。
政治の問題があれこれ語られていますが、どれもあくまで現体制の中でどうするかという話ですよね。いまある政治体制を抜本的に変えるというのは大変なことで、しかも日本人が苦手とすることです。『デモクラシー』みたいな政治制度は誰もやろうとしないでしょう。だったら逆にそれをやったらどうなるかなと興味がわいたんです。
作中でも少し書いていますが、現実に裁判員制度が機能しています。裁判という専門的な分野に、一般国民が参加して決断を下す制度が定着している。だったら政治だってできるんじゃないかという、皮肉も込めたシミュレーションですね。
―― 国会議員がいなかったとしても、割り振られた国民議員が意外とがんばるということにリアリティを感じました。もちろん、そこにいろんな問題や事件が起こるから『デモクラシー』は小説として面白いわけですが。
この制度自体が「こんなことは絶対ない」という前提で書いているので、ありえないよって笑いながら読んでいただければいいんです。ただ、政治とは何か? 民主主義とは何か? 政治家って何だ? みたいなことを問う議論ってなかなかないわけでしょう。みんな当たり前のようにすでにそこにあるものを受け入れて、その枠の中でどうするかという話をしているだけ。根源的な議論はなかなかないので、そういえばそういう議論ってないな、くらいの疑問を感じていただければと思います。
―― 子供の頃から選挙制度があって、いまのところ最善であろうということでやっていますが、いまの日本では投票率が下がり、国会議員は二世、三世ばかり。投票しようと思っても投票したい人がいない。そう感じている人にはぜひ読んでほしい作品です。
こういう制度は「絶対ないな」と思いつつ、実はそれほど非現実的でもないと思っています。世界的に見ると電子民主主義の考え方がちょっとずつ出てきています。どのくらいの規模の国や地域が適しているのかまだ分からないし、まだ一般化する気配はないですけど、いまの代議員制度とは違うものが生まれる条件が生まれ始めているという感じはしていますね。
主人公はシステム。登場人物は素材
―― 『デモクラシー』では、パンデミックをきっかけに支持を集めた新日本党が新しく国民議会制度を始めた一方、旧与党の民自連の大物政治家、富沢大介が暗躍を始めます。しかし、彼はもう国会議員ではなく、単なる党人。公の権力を持っていないというのがなんとも皮肉です。
「政治家は落選したらただの人」とはいまでもよく言われますが、しがみつく権力がなくなってしまったら政治家と名乗っている人たちはどうするのかな、ということには興味があります。富沢はその象徴です。
―― 物語の中心になるのは、富沢が推す現・都知事の宮川英子と、直接選挙で首相になった新日本党の北岡琢磨の対決ですが、それ以外にも国民議員を支える官僚、元国会議員で野心家の国民議員などが登場します。群像劇としても面白いですよね。
実はなるべくキャラクターを立たせないようにしようと思って書いていたんです。登場人物たちはこの政治システムを描写するための素材にすぎないから。
よく「小説は人間を描くもの」だと言いますが、それは当たり前で、最近、その当たり前を超えたものを書きたいとずっと思っています。『デモクラシー』の場合は、書きたかったのは国民議会というシステム。だから、キャラクターが強い必要はないんです。
―― たしかに登場人物の背景はさらっと書いてあるだけですが、キャラクターが深掘りされていないだけにかえって想像をかきたてられます。たとえば警視庁から出向してきた御子柴成美という女性刑事が印象的でした。
それはよくなかったかも(笑)。この小説はシステムが主人公で人間は素材。目立つ必要はないんです。説明しにくいんですけどね。
書くうえで気をつけたのは、物語の中で人物を突出させずにフラットにすること。ちょっとした癖とか口調でどういう人物かを想像してもらう。その人物の「いま」だけを書く。国民議会制度がある「現在」の姿が分かればいいわけだから。『デモクラシー』では、人物を掘り下げて書く小説の時にやることをあえてやらないようにしています。
―― 登場人物の個性を描くのではなく、国民議会というシステムの中で動いている人たちが、どう動くかにフォーカスした小説ということでしょうか。
いまはいろいろ試しているところで、まだズバッと言えないんですが、個人を超えた大きい話を書きたいんです。この『デモクラシー』もそこにどうやって至るかを模索した小説で、まだ試行錯誤中です。『デモクラシー』で描かれているのは現実とは別の次元で起きている話で、その世界をスパッと切り取って水平面を全部見せるみたいなやり方ができないかと思っているんですよ。
―― 国民議会がある世界で起きていることは、自然と私たちの国家と比べて読むことになりますよね。読者は読んでいる間、その世界にいるわけですから、自分だったら、と考えるでしょう。『デモクラシー』を読むことで、私たちが直面している問題への見方が変わると思いました。この世界をつくるうえで、憲法や法律など決めなくてはならないことが山ほどあったのではないでしょうか。
この話は本来、この二倍の分量が必要なんです。これだけ大きなシステムの変更ですから、法律的な話やその運用の実際を詳しく書いていったらそれくらいにはなるでしょう。
たとえば「公務員リコール制度」のエピソードを書こうと思っていました。国民議会制度になって、官僚が国会議員の支配から逃れて自由度が増した代わりに、国民が告発できる「公務員リコール制度」がつくられる。このリコール制度でクビにされた公務員が落ちぶれて、恐ろしいほどひどい目に遭う話です。でもあえてカットしたんですよね。
読者のみなさんには、僕がカットした部分を脳内で補完して読んでいただくことになるので、どんな読み方をされるかが怖くもあり、楽しみでもあります。
―― 読者一人一人が想像で補完する要素が多いと。たしかにキャラクターの個性は私が脳内補完した部分なのかも。
小説はちょっと隙間があったほうがいいと思うんですよ。『デモクラシー』はとくに想像する余地がある小説なので、自由に想像してほしいですね。
―― 想像でキャラクターを補完するというお話ですが、民自連の富沢はいまの政治家と変わらないので想像しやすいですが、新日本党の政治家たちは何を考えているのか分からないところがありますよね。変革への志はあるのだと思いますがその裏もありそうで。
裏側がないわけないんですよね。新日本党の政治家たちも旧時代からの政治家ですから、必ず何か引きずってきているはず。ただ、それをしつこく書いていくと、いまの日本の政争と同じような話になってしまう。書きたいのはそこじゃなく、政治システムが変わると社会がどう変わるか。僕が一番書きたかったのは、普通の人がこのシステムをどう捉えるかということなんです。
―― 『デモクラシー』の世界には新しい制度に対して反対する人たちもいて、国民議会制度がこのまま続くのかという疑いもあります。そこにリアリティがありました。現実にも、前の世界のほうがよかったという人は根強くいますよね。ソ連時代がよかったというロシアの人たちとか。
そうそう。ソ連のときにあんなに苦労したのに、昔がよかったと言う人がいるわけです。
―― だから、人間の社会ってやっぱり面白いなと思うんですけど。
面白いですね。だから、国民議会が導入されてから五十年後の世界は書きたくないわけです。システムが安定してしまったら面白くない。どっちに転ぶか分からない、もしかしたらまた元に戻るかもしれないという状態が面白い。『デモクラシー』では、そんなふうにシステムが揺れている時代の話を書いてみたかったなというのがあるんです。
世界はつねに揺れ動いている
―― いままで堂場さんは政治とメディアというテーマで作品をお書きになってきました。『警察回りの夏』(集英社文庫)から始まる三部作ではメディアからの視点、『解』では平成の政治史が重要な役割を果たし、『宴の前』では県知事選をお書きになっています。また、最近の作品では『小さき王たち』三部作が新聞と政治を題材にされています。これまでは過去から現在に材を採ったものが多いと思うのですが、今回は未来に目を向けていますね。
日本がこのまま動いていったらこうなるんじゃないか、という予想がデータからすでに出ているわけです。その予想を踏まえて世の中がどう変わっていくかを書いてみたい。SFまではいかないと思いますが、未来予測を小説でリアルに書いていくのはありかなとは思っています。ただ、同時に過去、つまり近代史、現代史をもっと書きたいですね。これからもっと勉強していかないと。
いまの時代を読み解くには戦国時代を見ても分かりません。現代と地続きになっているのは明治以降、それも特に戦後からですから。近現代史からいまの時代を読み解くというのはこれからもやっていこうと思っていますね。
―― 堂場さんは大学で国際政治学を学ばれていました。政治をテーマにした作品を書くうえで影響があるとお感じですか。
ありますね。具体的に何がというわけではなく、感覚として「世の中はめちゃくちゃだ」ということを知ったというのは大きいと思いますし、いま書いている小説のベースになっています。世界はあっちに行ったり、こっちに行ったり、つねに揺れながら進んでいる。昔から、人類はよく滅びないでここまで来ているなあ、と思っています。この世界で人が生きられているのが不思議だなと。
―― 『デモクラシー』の国民議会は、その「不思議な世界」を根底から考え直したときに出てくる「なぜ、こういう発想がないのか」なのかもしれないですね。作中に「国民議会は、民主主義の学校」という言葉が出てきて、民主主義について考えていくという側面もあります。まさに「デモクラシー」です。
実はこの作品はタイトルからできたんです。最初にタイトルが出てきたので楽でしたね。書く前に九割方仕事が終わっている感じで。構想より先にタイトルがあるなんて珍しいんです。
―― なるほど。読者にとっては「デモクラシー」という言葉の意味が、読む前と読んだ後で変わると思います。最後に堂場さんがいま、関心があることを教えてください。
いま、僕はこの国の根幹が揺らいでいると感じています。一番の大きな原因は人口が減ってきていること。もしかしたら自治体が消滅するなんてことも起こるかもしれない。そんな中で、この国がどうなっていくのかという話は考えていますね。でも、また近過去に戻ってリアルな事件を取り上げてみたいという気持ちもあるので、書きながら考えていきたいと思います。