成雅絡みのこととなると、愛息子の頼長のことすら許さない忠実
〝後〟という表現が生々しいではありませんか。
忠実は成雅をよほど可愛がっていたのでしょう。成雅絡みのこととなると、愛息子の頼長のことすらゆるしません。乱闘事件を起こした成雅を頼長が罰すると、約半年間、宇治の屋敷に参向することを止めたといいます(五味氏前掲書)。
とはいえ保元の乱では、上皇側についた頼長を応援、上皇側が敗北すると、天皇側についた忠通の計らいで配流を免れたものの、京都北郊の知足院に幽閉され、晩年を過ごすことになります(池上洵一「『中外抄』『富家語』解説」、新日本古典文学大系『江談 抄 中外抄 富家語』所収)。
まぁ上皇本人は讃岐国に流罪となって現地で死に、上皇側についた頼長は矢傷がもとで死んだことを思えば、幽閉で済んだ忠実はましなんですが……。
源為義なんて、天皇側についた長男義朝の手で斬首されますから。
平治の乱を引き起こしてしまった男色
しかし義朝は勝ったとはいえ、同じ武士の平清盛と比べると、ほとんどうま味は得られませんでした。
父殺しの汚名を着た上、後白河院の乳母の夫として権力を振るっていた信西入道の子を、「婿にしたい」と申し出て断られてしまった。にもかかわらず、信西は別の息子を清盛の娘婿にしたので、義朝は深い〝意趣〟を抱くことになります(『愚管抄』巻第五)。
同じころ、後白河院に〝アサマシキ程ニ御寵〟(驚くほど寵愛)されていた藤原信頼が、信西の権勢に〝ソネム心〟(嫉妬心)を抱いていました(同前)。
ここでも、男色が一枚嚙んでいるのです。
利害の一致した義朝と信頼は平治元(一一五九)年十二月九日夜、院の御所に放火、逃亡した信西を死に追いやり、信西の子らを流罪にしてしまいます。
平治の乱が起きるのです。
折しも熊野詣でに出かけていた清盛は事の次第を知って帰京、信頼は斬首され、落ち延びた義朝は家来の裏切りにあって殺され、平家の世が到来することになります。
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