順調に見えたバッティングセンター経営だが、93年に危機が訪れる。同年開幕したJリーグの影響で、客足が一気に遠のいていったのだ。日本中のバッティングセンターの施工に関わってきた株式会社キンキクレスコの堀川三郎会長は当時こんな手記を残している。
<一昨年にスタートしたJリーグブームでこの二年間は野球界は言うまでもなく我々バッティング業界にとりましても大きな影響を受ける事になりました。(中略)サッカーブームで子供達の野球離れに拍車をかけバッティングセンターも子供達の姿が少なくなり売上げも大きくダウン致しました。>(95(平成7)年2月号・クレスコバッティングNEWS)
バッティングセンターを救ったスター選手
翌94年、このバッティングセンターの危機を救うスーパースターが登場する。イチローこと、鈴木一朗が大ブレイクを果たしたのだ。彼がメディアに登場するたびに、父と一緒にバッティングセンターに通っていたという彼の幼少期のエピソードが語られ、以降バッティングセンターは息を吹き返していった。
バッティングセンターは、現在ピーク時の半数以下にまでその数を減らしているものの、黒字を出している店舗の多くが硬式球も打てる、打撃練習場に近い存在になっている。イチローの存在は、「バッティングセンターの打席は、プロ野球どころかメジャーにも続いている、ちゃんと野球の練習にもなるんだ」という担保になったのだと思う。90年代半ばにイチローが示してくれた指針の下で、バッティングセンターは生存の道を模索していったのかもしれない。
だが現在、バッティングセンター業界は深刻な後継者不足に頭を悩ませており、オーナーの高齢化に伴い黒字でも閉店の危機に直面している店舗が多い。冒頭でバッティングセンターを「日本の原風景」と書いたが、それは業界自体が斜陽産業になっていることが大きいからだと思っている。ノスタルジーを感じるということは、失われつつある風景である、とみんな気づいているからだ。バッティングセンターに愛しさを感じるのであれば、今すぐ最寄りの店舗に行ってほしい。お客さんが来ること、それだけがバッティングセンターが生き残る方法なのだから。
これからバッティングセンターがどんな歴史を作っていくのか。今後も取材者というより1人の客として、その行く末を見守っていきたいと思っている。