「『M-1』を見たらなぜか涙が出てきて…」
高校(龍谷大平安高)、大学(立正大)時代はともに野球部のマネージャーとしてチームを支え、その後、百貨店の松屋銀座に勤めた。
「会社員として充実した生活を送っていました。こうやって仕事を覚えて、段階を踏んでいけば成長していけるんだなという手応えみたいなものを感じる毎日でした。
もともと僕が所属していた野球部には100人近くの部員がいて、僕は『面白いことやれや!』と言われて前に出て爆笑を取ることが多かったんです。その延長戦で『やれるんじゃないか』と思っていました」
会社員として歩み始めた笠川の進路を変えたのは、ひとつのテレビ番組だった。
「自宅でひとりお酒を飲みながら『M-1グランプリ』を見ていました。その年(2016年)は銀シャリというコンビがチャンピオンになったんですが、銀シャリさんの優勝が決まった瞬間になぜだか涙が出てきて……お笑いをやってみたい――。自分の中に眠っていた気持ちに気づいた瞬間でした」
野球部の中で人気者であっても、そのままプロになれるほど甘い世界ではないことは、奈良で生まれ、京都で高校時代を過ごした笠川にはよくわかっていた。翌日から、お笑い養成所の情報を集め、地道な一歩を踏み出した。
「野球部の中だとみんな仲間なのでちょっとしたことでウケますが、自分の知らない人の前で自分の脳みそで考えたことでみんなを笑わせるというのは、ものすごくカッコいい仕事だなと思えました」
職場の上司の理解を得て、笠川は百貨店で勤めながら養成所に通い、プロの芸人を目指した。だが、安定した会社員としての生活を捨てるにはリスクがあまりにも大きい。
「お笑い芸人になりたいと言ったとき、多くの人に『やめたほうがいいよ』と言われました。僕も、この世界で成功するのは簡単じゃないと思っていました。
養成所にはいろいろな人がいました。大学のお笑いサークルや落語研究会出身の人も、僕と同じサラリーマンも、議員の息子も、人前で話すことが苦手でそれを克服するために来ていた人もいました。
本気で芸人になりたい人も暇つぶしみたいな人も。年齢も経歴も目的もバラバラでしたね。もちろん、芸人になって売れたいという人が多かったですけど」
もちろん、60万円ほどの授業料は自分で払った。
「分割にしてもらいましたけど(笑)。お金を払ったから、真剣に通いました。発声練習やダンスのレッスン、台本を渡されて芝居をしたりしていました。自分たちで3分くらいの漫才やコントをつくって、作家さんに見せてアドバイスをもらう。ボロボロにダメ出しされることもありましたね。
野球部時代に考えるよりも行動することに慣れていたので、ダンスレッスンで恥ずかしいと思うこともなかったし、ダメ出しされてもへこむことはありませんでした。野球部での経験が生きたと思います」