小説を書いていることが作家の呪い
―― 先ほどの謎と同じく、呪いみたいなものも、単に人々が感情のレイヤーで作り出しているだけなのかもしれない、ということが見えてくるのですが、それが第一章の、「あたしたちは呪いを切望している。自分を縛るもの、魅入られるもの、やむにやまれず引き寄せられるものを」という梢の心の声に、最終的には戻ってくるのかなと思いました。
カタルシスはないし、曖昧な結末だと思われるかもしれませんが、現実の人生はそういうものです。立ち位置をはっきりさせろとか、結局どちらなんだと二択を迫られることが増えて、わかりやすい結論が求められる時代になり、そういう結末で終わるのはいよいよ難しくなってきたなと実感します。でも曖昧な結末は、現代において非常にリアルだし大事なこと。実際の人生や登場人物たちの生きる道も常にまだ先があるので、「結局」ではないんですね。近年は「結局」という言葉をネガティブに捉えるようになりました。
―― 梢が、自分の呪いは小説を書いていることだ、と発言しています。これは作家である恩田さん自身もそのような考えを持っているのでしょうか。
そうですね。池澤夏樹さんの著書に『読書癖』という本があるのですが、まさにこのタイトルのとおりで、癖のように何かを読んでいないと落ち着かない。創作物というのはすべて呪いだと思います。取り憑かれ、縛られる、自縄自縛的なもの。創作物は何かを呼び込むため、招聘するために作られているのでは、とは私も感じるところです。
―― 先ほども「書き終わってみないと、自分でも何を考えて書いていたのかはわからない」と言われていました。やはり作家の頭の中に何かが招聘されて物語が動くというのは、ある種の作家の呪いといえるのかもしれません。
最初に設計図のようなものを作ってから書き始める人もいますが、私は書きながらどうしてだろう、なぜそうなるんだろうと考え、また書いていくタイプです。梢が知りたいと願っていた飯合梓がどういう人物なのかも、実は後半に入るまでまるで見えていませんでした。でも、レストランでの場面の後に、梢が関係者に個別にインタビューをするシーンがあって、その直前までは可能性の一つとして浮かんでいただけだった飯合梓の人物像の輪郭が、話が進んでいくにつれ、やはりそうなんだとくっきりと見えてきました。
―― 何かが招聘されている、何かを呼び込むというときの“何か”は、目に見えないものと考えると、この小説にも人ではないものが登場します。生きているものと死んでいるものが交錯する物語でもあります。
取材の船旅でも怖いと思う瞬間はありました。デッキに出ると見渡す限り海しかない。あんなに広いのに何もないのは、地上ではあり得ないのでちょっと不思議な感覚でした。そして船内もとても広いのに、密室感が半端なかったですね。私にはまったく霊感がないのですが、常日頃から見えない何か、というのはあるんだろうと思っています。今見えていないだけで、科学技術がさらに発達すれば幽霊の存在も解明できるのでは、といわれていますしね。
人間の記憶は都合よく書き換えられる
―― 作中作の『夜果つるところ』は、時期ははっきり書かれていませんが、昭和初期の軍部が力を持ち始めた頃の話で、舞台は海に近い山間の娼館「墜月荘」。ビイちゃんと呼ばれている語り手の“私”は、物心ついたときにはこの館に住み、なぜか産みの母、育ての母、名義上の母と母親が三人いる子ども。和洋中の建築様式が入り交じる館は、夜になると妖しく輝き始め、誘き寄せられるように男たちが通ってくる。そのなかには常連の子爵や将校の久我原、作家の笹野がいて、他にも若い将校たちの集会が行われていました。しかしあるとき事件が起きて、館が大混乱に陥ってしまう……という話。
この小説は『遊廓の少年』から着想し、立ち上がったということでした。舞台や時代設定、全体の雰囲気も『遊廓の少年』から影響を受けているのでしょうか。
そうです。しかし澁澤龍彥とか谷崎潤一郎とか、そういうイメージの小説を目指そうとしたのですが、自分が書くとやはりそうはなりませんでした。でも『鈍色幻視行』では、関係者のほとんどが、『夜果つるところ』はペダンティックで耽美的なゴシックロマン小説だと思い込んでいます。しかし梢や雅春は船内で読み直して、そういう小説ではなかったと、以前読んだときとは違う感想を抱いて、自分の記憶が書き換えられていたことに驚きます。やはり昔読んだものを今読むと、大したことはなかったとか、印象が変わることも多く、これは読書好きの人によくあることですよね。
―― そうはいっても、蜘蛛の巣の模様の入った着物を羽織った久我原が、子爵の謡いに合わせて、蠟燭の光に照らされながら扇子を持って舞うのを、月夜にビイちゃんが目撃する場面は、まるで妖艶な幻想のようでゾクッとしました。『遊廓の少年』も耽美的な小説なのですか?
そこは違っていて、簡単にいうと遊廓で育った男の子の話ですが、コメディタッチでブラックユーモアもある面白い小説でした。二作の出発点がこの本だったことを割と最近まで忘れていたくらいで、内容については薄れていますが、すごくインパクトがあったことは記憶に残っています。大きな仕掛けは特になかったけれど、チャーミングな物語でした。
―― 謎も呪いも記憶の改竄で起こる、とも考えられます。
それは大いにあると思います。映画で、あの主人公がこんなことを言っていたと記憶していても、見直してみるとそんなセリフはどこにもない。あれは一体何なのでしょうね。一番ショックだったのは、モノクロの映画だと思っていたのにカラーだったとき。脳内で相当に作り替えているんでしょう。
アイデンティティの確立という問題
――『夜果つるところ』は、『鈍色幻視行』では謎の作家である飯合梓が書いたことになっています。恩田さんの設定として、梓はいつ頃書いたことになっているのでしょうか。
七〇年代ですね。藤本泉さんという小説家がいて、主に七〇年代から八〇年代に作品を発表していました。『時をきざむ潮』という小説で江戸川乱歩賞も受賞したのですが、一九八九年以降行方不明になってしまったんです。篠田節子さんの『聖域』という小説は藤本さんをモデルにしているといわれています。飯合梓もその藤本さんのイメージが少し入っているかもしれません。
―― 『鈍色幻視行』も『夜果つるところ』も、アイデンティティの問題が大きなテーマになっています。前者では飯合梓の秘密や雅春の元妻の自殺の要因、後者では角替正や武井京太郎の言うように、ビイちゃんの謎にまつわるかたちで。アイデンティティの確立を重要な主題にしたのはなぜですか?
近年、ジェンダーの問題に焦点が当たることが増えてきたのが理由の一つになります。今回の単行本化の作業の間も、ジェンダーやポリティカルコレクトネスについて、さまざまな方面から指摘が入ったのには驚きました。
読者の多くは本のページをめくるとき、著者が男性か女性かを無意識のうちに頭に入れながら読んでいるんですよね。でも正直、なぜそれほど著者の性別が気になるのかがわかりませんでした。私がデビューしたときは覆面作家だったので、名前からの想像でよく男性だといわれていましたが、そう思われることが続いて、大概の人は作品に著者の性別や属性を当てはめながら読んでいるのだと実感しました。
この二作の連載中は、ジェンダーバイアスやアンコンシャスバイアスなどが非常に問題になっている時期でした。以前から、自分のアイデンティティやジェンダーの面でのポジションなどをよく考えてきていたので、その時期に思考がより深まりました。特に小説家というのは性差なく、どちらの視点も持っている人が多いというのが私の意見。そのあたりもこの二作で触れてみたかったんです。若い作家の場合は少しずつ性差がなくなっていると思いますが、私は考えずにはいられません。やはり昭和の名残のようなものが自分のなかにあって、いまだにバイアスは大きいと感じています。
―― 小説を一人称で書くときにも「私」なのか、「僕」や「俺」なのか。それによって印象がまったく変わります。
最近ハッとしたのは、登場人物の名前を苗字で表記するか名前なのかが大きな問題だということ。女性はなぜか名前で、男性は苗字が多いという印象です。それに気づいて、こんなところにもすでにバイアスが入っていると、愕然としました。
―― この二作品はアイデンティティの問題以外にも、人間の嫉妬心、呪いとは何かなど、まったくタイプの違う作品なのにリンクしているところがたくさん見受けられます。そこに気づくと、さらに没入度が高まる。書く前に、二作に共通のテーマを設けることは考えていましたか?
“曖昧な状態に耐える”という主題と同様に、書き進めていくうちに気づきました。だからともにアイデンティティの物語になったのは、結果としてそうなったということ。作品によっては物語がもうすぐ終わるとわかるときがあって、そこに差し掛かると、こういうことだったのかと見えてくる。『鈍色幻視行』は長期連載で登場人物も多く、毎回書く前に取材ノートを読み直したり船旅の写真を見たりしてから取り掛かっていました。それでも最後に近づくと、ああそうだったんだと腑に落ちた。そこでテーマが浮かび上がってきた感じです。
本当に長かった連載でしたがようやく形になりました。私の趣味の要素が満載された二作品。二ヶ月連続で出ますので、皆さんに存分に楽しんでいただければ嬉しいです。