舞台は一九四一年、日本占領下の廈門。
とある暗殺の指令を受けた二人の女性、リリーとヤンファの壮大な人生を描いた『楊花の歌』。
第三十五回小説すばる新人賞を受賞した本作の著者、青波杏さんは、女性史研究を長年されてきた研究者でもあります。
作中で描かれる遊廓の場面などは、多くの資料を参考とされたようです。
今回は受賞作について、そして青波さんご自身について、お話をうかがいました。
聞き手・構成/瀧井朝世 撮影/大槻志穂
――このたびは小説すばる新人賞受賞おめでとうございます。受賞作『楊花の歌』は、一九四一年の廈門から始まる物語。ダンスホールで働きながら諜報活動をする日本人リリーをはじめ、女性たちの物語です。青波さんはずっと、女性史を研究されていたそうですね。
青波 杏(以下、青波) はい。大学の卒論で一九一一年創刊の雑誌「青鞜」での、伊藤野枝と山川菊栄の売春に関する廃娼論争を取り上げたのがきっかけでした。
大学は京都精華大学だったんですが、僕が入学した頃はフェミニズム、ジェンダー、セックスワークの議論が盛んにされている時期でした。一、二年の時には社会科学系のサークルの先輩に教わり、当時流行っていたジュディス・バトラーや、アメリカのクィア理論といったものに影響を受けました。
三年の時にアメリカのオハイオ州に留学したんですが、そこの大学がまたものすごくLGBT運動が盛んなところで、あまり英語がわからないなりに参加していました。でも考えてみたら、僕は日本のフェミニズムについては、上野千鶴子さん以降しかほとんど知らなかったんです。それで、そういえば一年の頃に「青鞜」という雑誌の話を聞いたなと思い出し、辿り始めたら面白くなっちゃったという感じです。
――どこが面白かったのですか。
青波 百年前というとすごく昔に感じますが、その時代に書かれていることは、それほど現代から遠くはない。そう気づいたのが面白さの入り口だった気がします。
たとえば廃娼論争では、伊藤野枝はそうした仕事に就く女性を、「醜業婦」などと人間から除外するような、蔑むような言葉で呼んで廃娼運動(公娼制度の廃止を求めるキリスト者を中心とした運動)を進めるのはひどいのではないか、と言い、それに対し山川菊栄は、しかし公娼制度は人身売買制度のようなものであり、そのまま残していいのか、などと言っている。
結局議論自体は「青鞜」が休刊になって続かなかったんですが、そこで議論されている性労働のスティグマの問題、女性差別や女性の性の搾取の問題をどう考えるかは、実は現代のセックスワークにも通じている。いまのフェミニズムのなかでの議論とも重なって面白いなと思いました。
――失礼な言い方になりますが、女性以外のまだ若い人が、女性のセックスワークにそうした興味を示されたのは意外な気もします。
青波 あまり深くは考えていなかったんですが、ジェンダーアイデンティティーで考えると、僕はずっと男性とはかなり距離があったんですね。特に大学一、二年の頃はそれが強くて、できれば男性でないものになりたい思いが強かったんです。
――ホモソーシャルな世界に馴染めなかったわけですか。
青波 そうですね。そういうところには行きたくなかった。九〇年代後半当時は男性学も少し流行っていて、「男性自身の重荷を捨てよう」といった議論もされていたけれども、正直そこにも魅力を感じなかったんですね。それよりも、セクシュアリティーの話やジェンダー理論、当時フェミニズムの最先端といわれていたジュディス・バトラーが『ジェンダー・トラブル』のなかで書いていた、身体の性と心の性というものがあるわけではなく、すべてジェンダーなのである、といった議論を聞くのが心地よかったんです。立場としては男性を生きてはいるけれども、男性というものを積極的に引き受けないように頑張ってきた人生のなかでは、女性たちの書いていることにすごく感動したり、自分の問題と重なるところがあると感じていました。今、冷静に考えれば、ということで、当時はあまりよくわかっていなかったんですけれど。
――大学卒業後は大学院に進んで、研究を続けられたのですね。
青波 はい。修士課程では「青鞜」の論争があった時代をもう少し広範囲に観て、廃娼論争を含めて同時代にどんな議論がなされていたかを捉え直す研究をしていました。そうしているうちに、遊廓の内側の人たち、セックスワーカー当事者はどうだったのかという関心が強くなりました。それで調べていくと、藤目ゆきさんの研究書などで、遊廓でも結構ストライキがあったというのを知って。遊廓のなかの娼妓や芸妓たちも、同時代のほかの労働者と同じようにその仕事を続けるために条件をよくしろ、と言っている。当事者の視点に立てば、今すぐ辞めたがっている人もいれば、貧しいから辞められない、だから労働環境を改善したいという人もいる。いろんな立場があると気づいたんですね。それで博士課程では徹底して遊廓のストライキをめぐる新聞記事や、当事者の手記を辿り続けました。
――『遊廓のストライキ 女性たちの二十世紀・序説』というご本も出されていますね。
青波 二〇〇四年に京大に入り、それから博士論文を書くまでの八年くらいの間に資料を集めたりしてきたものが、二〇一五年に本になりました。
――『楊花の歌』の作中、遊廓の女性たちが信貴山に立て籠ったエピソードや、労働運動家の松村喬子に触れていますが、今お話をうかがって腑に落ちました。
青波 この話自体はフィクションですが、それでも、特に遊廓のなかのことに関するリリーのモノローグの部分は、当時者が書いた手記や、松村喬子の書いた本や、春駒という名で有名だった花魁、森光子の著書に出てくる女性たちの言葉を参考にしています。
――博士課程の後はどうされたのですか。
青波 その後は関西圏で非常勤講師を細々とやっていました。大学の公募にも応募しましたが、どこも通らなくて。非常勤は一年契約か半年契約で、それを繰り返していくうちに徐々にエネルギーがすり減っていきました。でもポジティブなことを言うと、その時期はバンド活動をやっていて、楽しかったので。月に四、五回ライブをやっていました。
――どの楽器で、どんなジャンルを?
青波 ベースでボーカルです。ジャンルとしてはフォークロックというか、グループサウンズ感のある、ちょっとレトロな感じです。曲も作っていました。
――小説を書こうと思ったのはいつですか。
青波 もともと中学生の頃に書き始めました。小三から中二までほとんど学校に行っていなくて、中二くらいになると友達も受験があるので家に来なくなって。人と話さないと孤独だなとはじめて知った時に小説を書き始めました。でも、大学で友達が増えて現実生活が充実してくるとあまり書かなくなり、廈門に行ったのを機にまた書くまで、十五、六年ブランクがあります。
――それまではどんな小説を書いていたのですか。
青波 中学の頃は男の子を主人公にして書いていましたが、だんだん男性を書くことにリアリティーを感じられないようになっていました。大学生になるとフェミニズムへの関心が出てきたので、やはり性にまつわる物語が多かったと思います。考えてみたら、大学の時にはじめて女性同士が恋をする話を書きました。今思い出しました。
「語られない歴史や人々を丹念に描くこと」 小説すばる新人賞受賞 青波杏『楊花の歌』
舞台は一九四一年、日本占領下の廈門。とある暗殺の指令を受けた二人の女性、リリーとヤンファの壮大な人生を描いた『楊花の歌』。第三十五回小説すばる新人賞を受賞した本作の著者、青波杏さんは、女性史研究を長年されてきた研究者でもあります。作中で描かれる遊廓の場面などは、多くの資料を参考とされたようです。
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