『天空の城ラピュタ』からつながる
ラストシーンの意味
さて、戦争をテーマにラストシーンまで読み解いてきましたが、最後に『ハウル』のラストが、宮崎作品史上ではどのような意味を持つのか解説して本章を終わります。
空飛ぶ城を注意深く見てほしいのですが、地上に降り立つためのドアが完全になくなってしまっています。ソフィーやハウルたちが「もう地上に帰ることはない」という意思のあらわれでしょうか。
興味深いのが、このラストが『天空の城ラピュタ』と対となっているという点です。
『ラピュタ』で描かれるラピュタ人たちは、地上の醜い争いを避け、他人に干渉されないために、自分たちの牙城を天空に築きます。
しかしシータが「土から離れては生きられないのよ」と言ったように、ラピュタ人たちは解明不能の疫病に蝕まれ、地上へ帰ることを余儀なくされたという歴史を持っています。物語のなかでも、それまで空に憧れていたパズー、飛行石によって空をものにしていたシータはともに地上へ帰還するというラストを迎えます。
相変わらず物語は破綻してしまいましたが…
つまり、『ラピュタ』と『ハウル』は、真逆のエンディングとなっているのです。
『ラピュタ』では人間は地上つまり「社会」のなかで地に足をつけて暮らすべきというメッセージを伝えながらも、その18年後には社会から離れて生きるのも構わないという真逆のテーマを提示しているんです。
おそらく『ハウル』のなかでは、重力は老いの象徴として描かれています。だから、ソフィーは歳を取ると体が重くなって歩きづらくなりますし、苦手な日光を浴びさせられて魔力が失われた荒地の魔女は階段が上れなくなる。人が老いることと、重力が増すことを必ずワンセットで語られています。
そう考えると、重力から逃れて空に飛ぶというラストシーンは、社会的規範や老いという人間が決して抗えない世界からも解放された究極のハッピーエンドとも考えられます。宮崎駿は『ラピュタ』の頃に感じていた社会的責任を捨て、「もう老い先も短いのだから、これから先は自由に生きさせてくれ」と叫びたかったのではないでしょうか。
宮崎駿は同じラストシーンのなかで、片方では世間向けに人間の愚かさを伝え、一方では自らを奮い立たせるために老年の自由を描いたのです。相変わらず物語は破綻してしまいましたが、ハウルとソフィーのラブストーリーという王道設定のなかに、自分がやりたいことを何重にも織り込んだ、作家としての力量を感じさせる作品です。
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