核武装「2000億円をかければ、5年以内で可能」
幾ら「面従腹背」を秘めて、いつかはアメリカと対等に―と思ったところで、冷戦期に於いてアメリカの影響下から完全に抜け出すためには、通常戦力をいくら拡充したところで難しい。現在のNATOにおける非核国―ドイツやイタリア、北欧諸国など―が英仏の核の傘に依存している(ニュークリア・シェアリング)ように、日本が真にアメリカと軍事的に対等な関係を築くためには、アメリカ以外の核保有国の傘の下に入るか、自前で核戦力を保有するかのどちらかしかないが、欧州とは違い日本周辺には核の傘を提供する同盟国がアメリカ以外に存在しないので、手段としては後者になる。
中曽根は佐藤栄作内閣で防衛庁長官に任命(1970年)されるや、防衛庁内部で日本の核武装についての研究を指示している。その結果は「2000億円(当時)をかければ、5年以内で可能」というものであった。もちろんこれは内部研究に過ぎず、実際に日本が核武装するにはまず国内的には非核三原則(1967年閣議決定)の見直し、またNPT体制からの脱退(1976年日本適応)を達成しなければならず、仮にそれができたとしても核実験はどこでやるのかという技術的な問題がある(現在では、未臨界核実験ができるので、必ずしも核実験は必要ではない)。
ともあれ中曽根がこのような「冒険」を企図したのは、中曽根の中に「面従腹背」の意志があったからだ。「ロン・ヤス」関係だけでもって中曽根がやみくもな対米追従主義者だったと見るのは正確ではない。中曽根の「親米」はあくまで外面であると見るのが妥当ではないか。中曽根は議員を引退(小泉内閣時代に定年を理由に勇退を半ば強制された)したのち、自身が主催する「公益財団法人 中曽根康弘世界平和研究所」で次のような憲法草案を発表した(2005年、当時中曽根86歳)。
前文 「我らは自由・民主・人権・平和の尊重を基本に、国の体制を堅持する」、第1条「天皇は、国民に主権の存する日本国の元首であり、国民統合の象徴である」、第11条の②「日本国は、自らの平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つため、防衛軍をもつ」……云々である。1956年に「憲法改正の歌」を作った38歳の中曽根は、後年においても何も変わっていないように思えるのは私だけだろうか。
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