「アジア回帰」でも「アジア主義」でもない新たな「普遍」
『アジアを生きる』は『アジア人物史』の総監修という得難い体験の中から生み出された「アジア的なるもの」への私の実人生的な感慨であり、また未来へのメッセージでもある。ただし、それは単なる「アジア回帰」でもなければ、手垢にまみれた「アジア主義」の季節外れの復権の試みでもない。むしろ、「アジア的なるもの」を潜り抜けることで見えてくる新しい世界と人間の見方に対する、希望の表明である。
戦争と虐殺の苦渋に満ちた世紀の半ばに生まれ、今も「終わらない戦争」(朝鮮戦争)の終結を願う我が身を振り返ると、アメリカの歴史家バーバラ・W・タックマン(1912~1989、第一次大戦の顚末を詳細に描いた主著『八月の砲声』でピューリッツァー賞を受賞)のいう「幻滅」ではなく、「希望」こそが依然として私たちに残されていると信じざるを得ない。
もちろん、そうした希望が、再び、幻滅に豹変してしまうことがないと断言はできない。しかし、それでも希望の余地が残されていると思うのは、冷戦終結以後の「アメリカン・スタンダード」としての自由市場経済の「グローバル・スタンダード」が、1990年代の世界的な危機を通じて、結局「マルクスが正しかった」と言えるような事態をつくりだし、資本主義が自らを改革する機運を醸成させているからである。
ファシズムや共産主義などの政治的な脅威は、資本主義が自らを刷新し、改革する動機づけとなり、アメリカはそのフロントランナーであることで絶大な覇権を維持してきた。だが、ソ連邦崩壊から30年、覇権国家アメリカがユニラテラリズム(単独行動主義)を謳歌し、すべての道はワシントンに通じると豪語できるような「デモクラシーの帝国」になったと思ったとき、それまで経験したことのない手強い政治的な脅威が成長していることに気づかざるを得なくなった。
「アジア的」としか言いようのないような「異形の」資本主義大国・中国の台頭である。この事態は、冷戦終結以後の放任型の資本主義と自由民主主義の永続的な勝利という多幸症的な思い込みを粉砕することになった。